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世界の諸宗教に出会う

「イスラームの美」 山下王世先生 (イスラーム編)

 本日は、イスラームという宗教が生み出した美術や工芸、建築について、イスタンブルを題材に写真を交えながら、お話します。今日とりあげるイスタンブルは、キリスト教とイスラームの文化が重なり合った歴史をもつ街です。
 

■イスタンブルの歴史

 イスタンブルの歴史は、紀元前7世紀にギリシアの植民都市ができるところから始まります。その後、ビザンティン(東ローマ)時代には、キリスト教の帝国の首都となり、コンスタンティノープルと呼ばれました。15世紀半ばになると、トルコ系ムスリムの人たちが征服し、オスマン帝国の首都となります。現在は、トルコ共和国最大の都市です。
 最初につくられたギリシア植民都市の場所は、ボスポラス海峡からやって来る船もよく見え、マルマラ海からやって来る船もよく見える、戦略的に非常に重要な場所でした。オスマン時代になるとその場所には、歴代スルタンの住まい、トプカプ宮殿が建設されました。
 

■ブルーモスクとアヤソフィア

 イスタンブル旧市街の建築に目を向けてみましょう。オスマン時代、17世紀初めに建設されたスルタンアフメトモスクです。内部は青色のタイル装飾やペイント装飾で覆われているため、ブルーモスクという別名でも呼ばれます。
 ブルーモスクとは広場をはさんだところに、アヤソフィアがあります。ブルーモスクよりも1000年以上も前、6世紀、ビザンティン時代に、教会堂として建てられた建築です。やがてオスマン時代になりますと、この教会堂はモスクへ変えられました。アヤソフィアのミナレット(細長い塔、ここからイスラームの礼拝の呼びかけを行う)は、モスクとして使われた時代に増築されたものです。
 これらアヤソフィアとブルーモスクという、2つの建築は、約1000年の隔たりがあって建設されたものですが、よく似た形をしています。特に中央に高くそびえる大ドームをもつところが似ていると思います。キリスト教とイスラームというと、現代社会では対立を連想させることもありますが、かつてはつながりの時代があったことを、これらの建築は示しているのだと思います。
 

■ブルーモスクの「象の足」

 ブルーモスクには、イスタンブルにあるスルタンのモスクのなかでは最も多い、6本のミナレットが設けられています。オスマン時代、王家のモスクには2本以上のミナレットを建てることができました。
 このモスクの礼拝室は、直径23.5メートルの大ドームで覆われています。そしてその大ドームの周りには、ドームを半分にした半ドームが添えられています。中央の大ドームにかかる力は、半ドームや大アーチに伝えられ「象の足」といわれる重厚な4本の円形断面の柱(平面図上の4つの丸い円)に行きつきます。この4本の柱はモスク外観では、重厚な塔として屋根の上に姿をあらわしています。

 
ブルーモスク(1617年)   ブルーモスク内部


■ブルーモスクの装飾~タイルとペイント

 このモスクの建築家メフメト・アリーは、建築家になる前に貝象眼の職人であったといわれています。このモスクの装飾はとりわけ美しく、「ブルーモスク」という別名どおり、礼拝室内部の壁や天井には、白地に緑色、藍色、水色で植物文様が描かれています。 
 装飾には2種類あり、それらはタイル装飾とペイント装飾です。壁面が平らな部分にはタイルをはり、丸柱の表面、アーチの内部、ドームの内側といった曲面の部分には、タイルをはるのが技術的に難しいですので、絵筆で文様を描いています。
 中央ドーム内側の中心部と下部には、青地に金色の文字装飾が、またそれ以外の部分には草花の植物文様が絵筆で施されています。いずれもペイント装飾の一例です。
 

 

■タイル装飾

 
 こちらは壁面タイル装飾の一例です。主として青系の色で統一されていますが、ところどころで効果的にトマトのように鮮やかな赤色が使われています。オスマン朝最盛期のタイルは、イズニックという町で生産されました。イズニックタイルは、ヨーロッパでもよく知られていて、高く評価されています。


■ステンドグラス

 
 イスラームでは偶像崇拝を禁じているため、モスクのステンドグラスには、チューリップやカーネーションなどの植物や幾何学的な文様が用いられます。赤、緑、黄色、そして微妙に異なるさまざまな色が使われており、力のこもった作品です。


■ミフラーブ~その周りに集中する装飾

 モスクに入ると、正面の壁にミフラーブがあります(写真中央の下部に見えるくぼみ)。ミフラーブは、メッカの方向を示すくぼみです。
   ムスリム達は、このミフラーブを見て、どちらの方向にむかってお祈りをすればよいのかを確認します。モスクでもっとも重要な場所といえるでしょう。そのためこのミフラーブの周辺には、装飾が集中して施される傾向にあります。ブルーモスクでは、ミフラーブ自体は白色大理石製でどちらかというと簡素なものですが、その周りの壁一面には植物文様のタイルがはられ、窓には細かいステンドグラスがはめ込まれています。
 


■偶像崇拝の禁止

 イスラーム化する前のメッカでは、多神教が信じられ、偶像が崇拝されていました。イスラームの預言者ムハンマドは、神は超越的な存在であると説き、偶像崇拝を厳しく禁じました。以後、信徒達は、神の姿を彫刻にしたり、絵に描いたりすることは避けてきました。
 人物像や動物像についても、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)の中で、その描写を避けるよう述べられています。イスラームでは、神だけが生き物を創造できると考えます。絵や彫刻とはいえ、人間が人物や動物を描いて形にするということは、神のような振る舞いとみなされ、神を冒涜する行為と受け止められました。そのため宗教施設内では、神の像のみならず人間像や動物像も描写されることはありませんでした。


■文様装飾が発達

 偶像崇拝が禁じられ、人物像・動物像の描写も避けられたことから、イスラームの造形装飾で著しく発展したのは文様装飾でした。これは大きく分けると3つに分けられます。文字、植物、そして幾何学的形態の装飾です。

■文字

 文字が主要な装飾要素のひとつであるということは、イスラーム美術の代表的な特徴です。これは、アラビア語がイスラームを信奉する人々にとって特別な言語であるということと深く関係しています。イスラームでは、神が啓示をもたらした言葉として、アラビア語が大切にされています。アラビア文字の美しい書体を考案することは、アッラーの啓示を受けた聖なる言葉にふさわしい表現方法を追求することを意味します。そのためイスラーム世界では、アラビア文字に多様な書体が創り出されてきました。
 アラビア文字は、神の言葉を収めた『コーラン』だけでなく、建築の表面で浮き彫り装飾にされたり、壁面にはられたタイルに描かれたりしてきました。それらは、文字のみで装飾として完結する場合もありますし、植物文様や幾何学文様と組み合わされて、より複雑な装飾を構成することもあります。
 

■植物

 植物による装飾は、花や葉の形を様式化して、それを繰り返し用いる植物文様が代表的ですが、一方で写実的な植物の表現もありました。特にイスラームの初期には、イスラーム以前の文化で育まれたモチーフ、例えば古代ギリシア、ローマ、ビザンティン、ササン朝などで見られたアカンサスやパルメット、ザクロなどの具象的なモチーフがそのまま使われるということもありました。
 植物文様の代表的なものには、ハタイ、ルーミー、カーネーション、チューリップ、サズなどがあります。ハタイというのは、中国が起源と考えられている架空の花です。葉のようにも見えるルーミーは、曲線の装飾文様を形成します。また、カーネーションとチューリップは、オスマン朝で特に好まれたモチーフです。最後のサズは、曲線を描く架空の細長い葉です。これらの文様は、たくみに組み合わされて、建築壁面や天井、工芸品、写本の装丁など、様々なところに用いられてきました。
 

■幾何学的形態

 オスマン朝モスク内部の壁面や天井は、文字装飾と植物模様で埋め尽くされることが多いのですが、モスク入り口の木製扉や、礼拝室に置かれる説教壇の装飾には幾何学文様がよく使われる傾向にあります。
 イスラームの造形文化にみられる幾何学的文様は、ある形態の図形を重なり合うように組み合わせてつくります。例えば、六角形をひとつのパターンとして、それを縦方向と横方向に繰り返し並べていくといった具合です。これらの装飾は、専門の職人の手によるもので、その緻密さと複雑さは、イスラーム世界で数学が高度に発達していたことの証です。
 

■メフメト2世がアヤソフィアのモスク転用を指示

 ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)を征服したオスマン朝スルタンのメフメト2世は、征服後にアヤソフィアを訪れ、その大きな空間とモザイク画の美しさに驚嘆しています。というのも、メフメト2世がアヤソフィアを体験するまでのオスマン朝モスクは、比較的小さな事例が多かったからです。アヤソフィアのような、直径32メートルもの大ドームが約50メートルの高さに据えられる大空間は、オスマン朝では未経験のものでした。スルタンが目を奪われたのも自然なことだったと思います。これ以後、オスマン朝のモスクは様式をがらりと変えていきます。
 征服後、アヤソフィアは、メフメト2世によってモスクに改修されます。その後、新設されたオスマン朝スルタンのモスクには、アヤソフィアの外観によく似たものが建設されるようになりました。先ほどご紹介した、ブルーモスクもそのひとつです。アヤソフィアの存在感はとても大きなものだったことがうかがわれます。

■教会堂からモスクへの転用

   ここで、教会堂をモスクに改修するとは具体的にどのようなことなのか、アヤソフィアを例にして確認しましょう。モスクへ改修時、アヤソフィアではイスラームの礼拝に必要なアイテムが設置されました。それらは、メッカの方向(キブラ)を示すミフラーブ(写真中央)、そして、ミフラーブに向かって右側に、ミンバルといわれる説教壇でした。説教壇は、金曜礼拝時の説教に使われますので、金曜礼拝が行われるモスクにのみ設置されます。


■アヤソフィア:人物像モザイク装飾の扱い

 偶像崇拝を禁じたイスラームの原則からすると、キリストやマリアのモザイク画は、モスクに改修された時点で、モルタルで上塗りされたと考えるのが自然です。しかし、そのモルタルで塗られた時期を調べていくと、イスラームによる征服直後ではなく、意外にももっと遅い時期に上塗りされたものもあったようです。
   例えば、アヤソフィアの入り口から入って、いちばん奥の天井部分にある、キリストを膝に抱いた聖母マリア像(写真左)と、その横にある天使像(写真中央下)です。アヤソフィアがモスクに改修されたのは、1453年のことでした。これらのモザイクは、イスラームの原則から言うと、その時点で上塗りされることが自然といえます。しかし1710年、アヤソフィア内部を絵に描いたスウェーデン人技師ロースは、聖母マリア像と天使像を描いています。1710年ですから、モスクへ改修されて250年以上が経過しています。史料によると、18世紀初め頃まではこれらのモザイク画は露出したまま、モスクとして使われていたようです。
 

■まとめ~文化はまじりあう

 イスラームというと、厳格な印象をもたれる方もいらっしゃると思います。しかし歴史をひもといていくと、必ずしも厳格ではなかった時代や地域があったことを確認することができます。モスクの中で、聖母マリアのモザイク画を250年以上もの間、そのまま放置していたという大らかさや包容力が、イスラームには確かにあったようです。キリスト教の教会堂を受け継ぎ、モスクに転用して大切に使ったということからも、キリスト教のすべてを否定したわけではないことが読み取れます。これらのことは、キリスト教とイスラームという宗教、そしてそこから生み出される建築や造形が、緩やかにつながり合っていたことを示しています。文化や宗教という枠を超えて受け継がれたものを見つけだし、つながりを感じることを、歴史は私たちに教えてくれているのかもしれません。
ご静聴ありがとうございました。

 
(平成24年8月28日、東京・立川にて)

 

【山下王世(やましたきみよ)先生】
現在、立教大学文学部・准教授、専門はイスラーム建築史。
トルコのイスタンブル工科大学建築学部を卒業後、筑波大学の芸術学研究科芸術学専攻博士課程修了、博士(デザイン学)を取得。その後、マサチューセッツ工科大学、東京外国語大学を経て現職。
共著書に『文化接触の想像力』(久保田浩編)等。