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コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】

本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。

建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う

 

第18回 北の仏国土 (上)


2011年3月11日、東北地方を大地震・大津波が襲い、そして原発事故が引き起こされました。まさに未曾有の事態であり、深刻な状況はなおつづいています。

 

 

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2011年6月26日、東北地方の中心に位置する「平泉(ひらいずみ)」が世界遺産に登録され、被災地の復旧・復興にむけてのシンボルとして、大きな灯となりました。登録された文化遺産の内容は、以下のものです。

・中尊寺(ちゅうそんじ)【写真H-1】
・毛越寺(もうつうじ)【写真H-2】
・観自在王院(かんじざいおういん)跡
・無量光院(むりょうこういん)跡
・金鶏山(きんけいざん)

内陸部にある「平泉」に津波の影響はありませんでしたが、毛越寺庭園の池の立石【写真H-3】が余震で傾くなどの被害を蒙(こうむ)りました。しかし、比較的軽微な影響で済んだのは不幸中の幸いというべきでしょう。


【写真H-1】:中尊寺金色堂を保護する鞘堂。昭和40年に建てられた鉄筋コンクリート造の建物で、その中に「世界遺産」で国宝の金色堂がガラスケースに納まって展示されている
【写真H-2】:復元された毛越寺庭園。平安時代の浄土庭園の貴重な遺構。かつては池を縦断して橋が掛かり、対岸にあった金堂に至る構成になっていた
【写真H-3】:毛越寺庭園大泉が池の池中立石。大きな池は海を象徴し、傾斜して立つ石は海に突き出た岬をあらわす。そこは神が舞い降りる場所であった

おそらく、現地を訪れたひとの多くが感じるのは、地上にのこっている当時のものが意外と少ないことです。「平泉」が世界遺産に登録されるに際し、一度は棚上げされ、予想以上に時間を要したのもこの点にあったといえましょう。つまり、多くの遺産は消失したか、あるいはその痕跡が地中に眠っているかというのが現状です。

毛越寺庭園などの印象的な庭園は、掘り出された痕跡をもとに修景・復元されたものです。眼前に、当時のままに存在するのは、ガラス張りのなかの中尊寺金色堂(こんじきどう)が唯一、といったらいい過ぎでしょうか。
(経蔵も古いですが、当時の材を再利用し、現在地に再建されたとみられます)

つまり、「平泉」を体験するには、わたしたちの側に、当時を喚起する想像力が必要とされるのです。そう、「平泉」を構想し築いたコスモロジー(=世界観)を梃子(てこ)にして、初めて、当時の「平泉」をありありと立ち上げることができるのです。

実際、「平泉」が世界遺産に登録されたのも、「平泉」を築いたコスモロジーとセットになってのことでした。

前回までに見たように、東大寺の巨大なルシャナ仏は、周囲にその化身たる釈迦仏を全国にしたがえて、朝廷が支配する社会の隅々にまで光明をもたらし、理想の仏国土を謳い上げたのですが、じつは限界がありました。陸奥国(むつのくに)の国分寺(所在;宮城県仙台市。金堂と塔の礎石がのこる)がその北限だったのであり、さらにその北は、朝廷から蝦夷(えみし)と蔑称された、まつろわぬ民の住む地域だったのです。

 

 

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〈奥州藤原氏三代、滅亡時の報告書〉

平安後期の12世紀に平泉を拠点とする、清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)とつづいた奥州藤原氏三代、最後の泰衡(やすひら)を含めると四代の栄枯盛衰の歴史がありました。その90~100年を振り返りますと、平泉を中心として東北の地全体を仏国土(=浄土)にしようと構想し、これを実現しようとしたきわめてユニークな試みであったということができます。

平泉の建物についてのもっとも確かな記録は「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)と呼ばれる文書です。注文とは報告書という意味です。

1189年、源頼朝が平泉に迫ります。大勢の鎌倉軍の前に泰衡は平泉を捨てて逃亡し、平泉は陥落しました。この時、逃亡する平泉軍が平泉館(ひらいずみのたち)に火を放ちました。この時に中尊寺や毛越寺の堂塔も焼失してしまったと思いがちですが、それらに火が及ぶことはなかったようです。

逃亡の途上、泰衡は殺害され、その首が頼朝の前に差し出されます。首は八寸釘で打ちつけられたといいます。

こうした状況下、寺の衆徒たちはつぎつぎに逃亡してしまいます。そこで中尊寺の僧が、早く事態の収拾を図ってほしい旨を頼朝に願い出ます。頼朝は清衡以下、藤原氏三代が建立した寺の堂塔について話を聞いたうえで、文書で詳しい報告をするようもとめます。これに応じて提出されたのが「寺塔已下注文」です。


〈仏国土の中心に〉

緊迫した状況下、頼朝にたいして提出された文書ですので、非常に信頼性の高いものです。8項目からなりますが、その最初に中尊寺が挙げられています。

一 関山(かんざん)中尊寺の事
寺塔四十余宇、禅坊三百余宇なり。
清衡、六郡を管領(かんれい)するの最初にこれを草創す。まず白河の関より外浜(そとのはま)に至るまで廿余ヵ日の行程なり。その路一町ごとに笠卒塔婆(かさそとば)を立て、その面に金色の阿弥陀像を図絵し、当国の中心を計りて、山上に一基の塔を立つ。

関山とは中尊寺のある山で、標高150メートルほどの丘陵。中尊寺の山号でもあります【写真H-4】【写真H-5】


【写真H-4】:関山山腹にひろがる中尊寺の境内。かつては大伽藍をなしていたが、南北朝期(室町初期)に多くが焼失し、当初のものは鞘堂に納まる金色堂のみである
【写真H-5】:関山から北上川をはさんで対岸の束稲山(たばしねやま)を望む。秀衡と同時代人の歌人西行はこの地を訪れた際、束稲山の桜を讃えて、こう歌を詠んだ 「ききもせずたばしね山のさくら花 よしののほかにかかるべしとは」

当時、堂塔の数は40余り、僧の住む僧房は300余りもあったといいます。
六郡とは奥六郡を指し、平泉の北を流れる衣川(ころもがわ)【写真H-6】【写真H-7】より北の、北上盆地一帯にひろがる胆沢(いさわ)・江刺(えさし)・和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)・志波(しわ)・岩手(いわて)の6郡をいいます。


【写真H-6】:平泉の北を流れて北上川にそそぐ衣川。この川の北に奥六郡がひろがる。蝦夷の棟梁・清衡が衣川を越えて平泉に拠点をきづき、東北全土を視野に入れるようになったのは画期的なことであった
【写真H-7】:衣川の水面を照らしながら、ゆっくりと沈んでゆく秋の夕日。人びとはこの地に浄土を見ることができたのだろうか。あるいは、夕日の沈むさきに西方浄土を夢見るしかなかったのか

初代清衡がこの地域を統治するに当たって最初に中尊寺を開いたことを、さきの「寺塔己下注文」は述べていますが、注目すべきは、そのつぎの箇所です。(さきの「寺塔己下注文」引用箇所を再度参照してください

【図H-1】:奥大道略図。ちょうど真ん中の地点に平泉が位置する

解説をくわえますと、当時、白河の関を越えると蝦夷の地といわれていました。栃木と福島の県境に近い白河の関は、蝦夷の地の、いわば南限です。そして外浜(そとのはま)は往時の呼称で、現在は外ケ浜(そとがはま)ですが、そこは青森県は津軽半島の陸奥湾側。蝦夷の地の南限の白河の関から平泉をとおって北限の外ケ浜まで至る道は奥大道(おくだいどう)と呼ばれます【図H-1】

今日いう東北地方の全域を視野に入れ、その中心地点に一基の塔を立てた――それが中尊寺のはじまりだというのです。

残念ながら、山上に立っていたという塔は現存しませんが、以上の記述は、中尊寺建立の理念を余すところなく伝えています。

中尊とは真ん中に位置するほとけを意味し、多くの場合、これが本尊となります。抽象的・観念的に、〈ほとけの世界〉の中心にあるほとけ、ということになりましょうか。

しかし、中尊寺はそういった意味にとどまらず、「当国の中心を計りて」、この世の中心に建てられたのでした。それもきわめて具体的で、白河の関より外が浜に至るまで、つまり南限から北限までの路に、一町ごとに笠卒塔婆を立てるという念の入りようです。

この世の中心こそ、〈ほとけの世界〉の中心なのでした。この世を〈ほとけの世界〉とする、つまり、蝦夷の地であるこの地を、北の仏国土とする――。そうした決意の下に、この地、東北地方の中心に中尊寺が建立されたのです。

 

 

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〈戦乱の世の果てに〉

じつは、平泉を語るには、東北地方に勃発した前九年の役(ぜんくねんのえき。1051年~1062年)と後三年の役(ごさんねんのえき。1083年~1087年)という、壮絶きわまる二つの内戦を忘れるわけにはいきません。

これら二つの国内戦争はそれぞれ実情を異にするとはいえ、朝廷から遣わされて東北地方を統治する陸奥守と蝦夷の豪族の争乱、そして蝦夷の豪族どうしの勢力争いが入り混じる、まさに混迷の極致というべきものでした。初代清衡自身、前九年の役において父を、また後三年の役では妻子も失うという悲惨な体験をするのでした。

悲惨で多大な犠牲を払った戦争でしたが、その終結を願い、かれは朝廷に服従を誓います。清衡が奥六郡から衣川を越えて、東北地方全体を視野に入れうる立場に立ったのは、一族のなかで頭目の座を継承しうる生き残りは、かれだけだったからです。図らずも……。

長期にわたる戦乱により、この世は地獄絵の様相を示していました。多くの血が流れ、大地は荒れ果て、人心もすさみます。この世に地獄を見た清衡は、その時、何を想ったことでしょうか?


〈中尊寺の世界観〉

1126年、中尊寺が建立された際に清衡によって読み上げられたという「中尊寺供養願文(ちゅうそんじくようがんもん)」に、耳を傾けてみましょう(この時、清衡数え71歳)。

鐘の音は世界の隅々にまで響きわたり、分け隔てなく平等に、だれからも苦しみを取り去り、だれにも安らぎをあたえてくれる。朝廷から派遣されてきた官軍からも、蝦夷とさげすまれてきた土地の人びとからも、古来、多くの死者を出してきた。また動物、鳥、魚介など無数の生き物が犠牲になっている。浄められた魂はみなあの世に往ったが、骨は朽ち、この世の塵となっている。大地に響きわたる鐘の声よ、鳴るたびごとに、さまよえる魂を浄土に導いてほしい。(拙訳)

平和をもとめて、浄土への鎮魂を願う、まさに仏教の精華といえることばではないでしょうか。

この2年前の1124年に金色堂が上棟(じょうとう)しています。上棟とは建物の骨組みが完成することです。
ということは1126年のこの時点で、金色堂は完成していたとみられますが、「中尊寺供養願文」には主要な建物はもちろん門や垣、橋まで出てくるのに、金色堂にはまったく触れられていません。不自然な感じがしますが、この点については次回に触れることにしましょう。



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                                                                             (つづく)


註記:図版出典および参考文献は、第20回「北の仏国土(下)」において纏めて掲げます。

武澤 秀一(たけざわしゅういち)

1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。