コスモロジーと出会うよろこび【編集部から】
本連載エッセイでは、人類共通の記憶の宝庫ともいうべきコスモロジー(=世界観・宇宙観)の豊かさを武澤秀一先生が探究します。
建築家である先生は、ご著書『空海 塔のコスモロジー』『マンダラの謎を解く』『神社霊場ルーツをめぐる』に見られるように、3次元の存在である建築を歴史・宗教・文化の位相のなかに捉え、塔やマンダラや神社霊場が聖なる力を帯びていく様相を明らかにされてきました。そして今年3月に刊行された新著『伊勢神宮の謎を解く』は、とくに日本の特性を浮かび上がらせていて注目されます。本連載エッセイにあわせて、ぜひごらんください。これからの連載でも、日本列島において育まれてきたわたしたちのこころの特性に、さまざまな場面で気づかせてくれることでしょう。
さあ、コスモロジーに出会う旅に出発することにいたしましょう。わたしたちが無意識の底に置き去りにしてきた大切なものに、今、再び出会うために——。
建築家 武澤秀一の連載エッセイ 時空を超えて コスモロジーと出会う
第10回 ハスのコスモロジー(上・その1)
前回、再スタートに当たり、コスモロジー(=世界観、宇宙観)とは、わたしたち1人ひとりのこころのなかで培われた世界のイメージ、あるいはその成り立ちの物語といいました。コスモロジーの本質、つまり肝心なところは、やはり、つぎの点にあると思われます。
1 〈世界ハス〉
この問題を探索するとき、人類の遠い記憶をとどめているインド神話はその宝庫といっていいでしょう。すでにエローラ石窟の探訪において、シヴァ神を主役とする世界創成神話を紹介しました(第6回)。今回はシヴァ神と並び称されるヴィシュヌ神を主役とする神話を紹介することとしましょう(上村勝彦『インド神話』に基づく)。 世界はすべて水におおわれていた。とぐろを巻いて水の上に浮かぶ大蛇を寝台として、ヴィシュヌは眠りについていた。まどろみは永遠につづいた…。 この神話はヴィシュヌを語るうえで欠かせないものです。すでに触れたように、インドではハスをパドマといい――のちに述べるようにハスでも紅いハスを指すことが多い――、臍をナ―パといいます。それでヴィシュヌは、この神話にちなんでパドマ‐ナ―パという別名をもつほどです。 |
〈ハスの花の女神〉この場面を伝える有名な立体レリーフがインドのヒンドゥー教寺院にあります【写真L-1】。横たわるヴィシュヌの足元で脚をさすっているのは妻のラクシュミ―、別名パドマです。この女神はハスの花の化身であり、ヴィシュヌに仕える妻となる前は、世界の母としてインドの人びとに愛されてきた至高の存在でした。
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【写真L-1】原初の海の上でまどろむヴィシュヌ神。その臍から生え出たハスの花は壁面に表され、ブラフマー神が坐っている。横たわるヴィシュヌの足元で脚をさすっているのは妻のラクシュミ―、別名パドマ。 |
そういう伝統がありましたので、たとえば第2回で見たサーンチーのストゥーパのような初期の仏教モニュメントにも、ヴィシュヌの妻となる前の、ハスから生まれたラクシュミ―を多数見ることができます。仏教、ヒンドゥー教を問わず、インドにおけるハスの花の神はラクシュミ―なのであり、世界の母なのでした【写真S-11】。 |
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【写真S-11】ハスの花の上に坐る、ハスの化身の女神ラクシュミ―。これまたハスの花の上に載る2頭の象が天界の水を注ぎ、ラクシュミ―を祝福している/サーンチー北門 |
こうして見てきますと、海の上でまどろむヴィシュヌの臍から出てきたハスも、その実、妻のラクシュミ―であったことがわかります。ヴィシュヌが世界の最高神であることを示すために、生み出す力を妻であるラクシュミ―(=パドマ)に託したのでした。つまり、男神ヴィシュヌは女神ラクシュミ―と一体となって万能の存在となるのでした。
この神話をおさめる『バ―ガヴァタ・プラーナ』の成立は比較的新しく、9世紀ころとされています。しかし今見た立体レリーフが出来たのは6世紀ころとみられますので、神話じたいはこのころにはできていたと思われます。 このものは、かつて暗黒からなっていた。認識されず、特徴もなく、……、すべてが眠っているかのようであった。
自ら生まれしものとは、『プラーナ』にいう、ハスから自力で生まれ出たブラフマー神のことです。 |
〈日本にも入っていた〉この神話は『雑譬喩経(ぞうひゆきょう)』という仏典にも入りこみ、なんと日本にも伝わっています。葛城修験(しゅげん)系の鎌倉時代の文献(『大和葛城宝山記〈やまとかつらぎほうざんき〉』)がこれを引いており、さらに南北朝時代の伊勢神道の文献(『類聚神祇本源〈るいじゅうじんぎほんげん〉』)にも再録されています。それを見ると、つぎのようです(山本ひろ子『中世神話』)。 十方(じっぽう)から風が吹いてきて風どうしがふれ合い、大水を湛えていた。水上に神聖(かみ)が化生(けしょう)した。(中略)常住慈悲神王(じょうじゅうじひしんのう)と名づけて、違細(いさい)とする。この人神の臍の中から、千葉(せんよう)金色の妙法蓮華が出現した。その光は非常に明るく、たくさんの太陽が一緒になって照らすようであった。花の中に人神がいて結跏趺坐(けっかふざ)していた。(中略)名づけて梵天王(ぼんてんおう)という。
十方とは、東・西・南・北、東北・東南・西南・西北の八方に、上・下をくわえた方角。つまり、あらゆる方角を意味する。違細とはヴィシュヌ神、梵天王とはブラフマー神のこと。 |
〈梵我一如〉
ところで、〈梵我一如〉 (ぼんがいちにょ)ということばを聞いたことのあるかたも多いと思いますが、これは、〈アートマンはブラフマンである〉 というインド思想を漢語で表現したものです。梵がブラフマン、我がアートマンです。 「それを割ってごらん」
汝はそれである、つまり梵我一如。〈梵〉とは宇宙のすべてを生み出すものであり、かつ、汝であり我でもあるというのです。〈梵〉は存在のさまざまな相を超えて普遍的に存在し、かつ個々の相に現れるのです。こうした考えかたが、仏教が生まれた紀元前500年ころにはすでに成立していました。日本列島では弥生時代の前期にあたるころです。(近年の見解によれば、弥生時代の開始時期がくり上がってきています) |
〈梵我一如とハスのコスモロジー〉
ヴィシュヌの臍から生え出したハスのなかにヴィシュヌ自身が入りこんだとか、また、そのハスから生まれたブラフマーが自らの中に至高神ヴィシュヌを見いだしたとかいう、〈包むー包まれる〉ことを繰りかえす自己と世界の関係は、〈梵我一如〉の説話化といえます。 世界はすべて水におおわれていた。それは揺れ動く海であった。かのプラジャーパティは、風となってハスの花にのって揺れていた……。
プラジャーパティとは、ヒンドゥー教の主神であるシヴァやヴィシュヌが確立していない時代における唯一の創造者ですが、のちにヴィシュヌに置き換えられます。バラモン教と呼ばれるこの段階にあって、すでにハスが登場していることは、それが世界を生み出す力をもっとみなされていたからです。 太初、闇は闇に覆われ、このすべては、区別するしるしとてないうねり(=水波)であった。 古来インドにおいて水は、形なき混沌として捉えられてきました。そこから生えてくるハスは、まさに混沌から形ある秩序を形成するものであり、世界を象徴するにふさわしいものだったのです。 |
武澤 秀一(たけざわしゅういち) 1947年群馬県生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院を中退し、同大学助手をへて建築家として独立。設計活動の傍ら、東京大学、法政大学などで設計教育指導に当たった。20代、30代はヨーロッパ志向がつよかったが、40代に入りインド行脚をはじめる。50代以降は中国、韓国および日本列島各地のフィールドワークを重ねている。著者に、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)、『空海 塔のコスモロジー』(春秋社)、『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、『神社霊場 ルーツをめぐる』(光文社新書)、『伊勢神宮の謎を解く——アマテラスと天皇の「発明」』(ちくま新書)などがある。 |