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宗教こぼれ話

このコーナーは、宗教情報センターに長年住みついている知恵フクロウ一家の
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日々面白いネタを追い求めて夜の空を徘徊するセンちゃんが、
交代で、宗教に関わるさまざまなエピソードを紹介します。


第十九回「外国人に大人気! 田縣神社の豊年祭」

2012/03/14 第十九回「外国人に大人気! 田縣神社の豊年祭」 

情ちゃん  東日本大震災からの復興においては、コミュニティの再生に果たす「祭り」の役割が再認識されました。「祭り」の中核である寺社がコミュニティの中心として担ってきた役割ももっと見直されるとよいのですが・・・・・・。

●○●田縣神社の豊年祭●○●
 例年3月15日に行われる田縣(たがた)神社(愛知県小牧市)の豊年祭は、1500年以上の伝統を誇ります(※1)。約8~10万人の人出で賑わいますが、その半数近くを占めるのが外国人です。(※2)。戦後、近くの空港に駐留していた米軍関係者が話を広めたのか、横須賀や厚木の米軍基地から毎年、観光バスが連なるほどになりました(※3)。ここから海外に情報が伝わったのでしょうか。フランスの国営テレビやイタリアの雑誌社などが取材に訪れたこともあります(※4)。近年は、個人のブログなどで情報を見たという外国人も多く訪れます。
 あまりの人気に、祭りの“主役”にも変更が加わりました。“主役”とは、3種類ある御輿のなかでも陽物御輿(ようぶつみこし)に納めて担がれるお供え物「大男茎形(おおおわせがた)」です。これは男性の象徴をかたどったもので、毎年、原木から新たに彫り上げられます。戦前はマツの丸太で作られていましたが、見物客が増加した戦後は高価な木曽ヒノキが用いられるようになりました(※2)。大男茎形は、樹齢200~250年、長さ2.5メートル、直径50~60センチの原木に斧を入れる斧入祭(おのいれさい)という神事が行われた後、約10日間で仕上げられます。
 この大男茎形を毎年新しくヒノキで作成して奉納し、五穀豊穣、万物育成、子孫繁栄を祈願するのが豊年祭です。御輿の行列には、男茎形を描いた「神宝(しんほう)の幟(のぼり)」を奉持する厄男代表や、長さ約50センチの男茎形を持つ女性たち(五人衆と呼ばれます)なども加わります(※5)。
 由緒正しい祭ですが、下品な呼び方で取り上げられることが多く、あまりのひどさに2010年11月、宮司が祭りの趣旨を説明する公式サイトを立ち上げました(※4)。サイトでは、祭りの様子を収めた写真コンテストの作品募集も告知されています。応募写真について「※但し神威を汚すような露骨な作品は入賞より除外します」との但し書きに、宮司の思いを垣間見るようです。残念ながら、英文サイトは未だ開設されていません。

 
        
 <田縣神社公式サイト>  <豊年祭>
 

 大男茎形をお供え物とする由来は、平安時代(807年)に編纂された『古語拾遺(こごしゅうい)』に記された故事にあります。簡略にまとめると次のような話です。
 その昔、農業の神である大地主神(おおちぬしのかみ)が、田作りをする人に肉を食べさせたところ、凶作になりそうになった。肉食は穢れであるとする豊年の神である御歳神(みとしのかみ)の怒りに触れたことを知った大地主神が、男茎形(おわせがた)を作って供えたところ、無事、豊作となった(※5)。
 この故事に出てくる御歳神と、尾張地方開拓の祖神である大荒田命(おおあらたのみこと)の王女である玉姫命(たまひめのみこと)が、弥生時代に起源をもつ同神社の御祭神とされています。

●○●大縣神社の豊年祭●○●
 この玉姫命(玉比売命)はまた、同神社からわずか3キロの近隣にある大縣(おおあがた)神社(愛知県犬山市)の姫之宮にも祀られています。姫之宮の豊年祭は3月15日に一番近い日曜日に行われます。こちらの祭神は女性の象徴です。田県神社が陽ならば、こちらは陰ということで、陽物一対の祭りと捉える人も多いようですが、神社の話では何ら関係がないとのこと(※6)。数十年前までは、大縣神社の豊年祭には女性器を描いた幟や御輿が出ていましたが、今では幟に描かれた「お多福」の口に、その名残を留めるだけです(※7)。

●○●祭りと性なるもの●○●
 昔は、性の象徴をご神体や祭りの象徴としていたところも多いようですが、時代を経るにつれて変化してきました。神事に欠かせない「扇」が蒲葵(びろう)の代用物であり、蒲葵は男根の象徴物であることを明らかにした民俗学者・吉野裕子氏は、「古代日本人における神の顕現とは、人の生誕と同一の原理によるもので、必然的に『性』は祭りの中枢に来る」と述べています(※8)。「那智の火祭り」として有名な熊野那智大社(和歌山県)の例大祭で、扇神輿(おうぎみこし)の行列の先頭に立つ馬扇(うまおうぎ)の扇面には、今は馬の絵が描かれていますが、昔は田県神社の幟と同じく、男性の象徴が描かれていました。しかし、時代とともに「格好の悪いものはお祭りに出せなくなって、陽の動物である馬に変えた」そうです(※8)。
 性的なものへの抑圧は、明治時代以降、特に顕著になりました。1871(明治4)年には「裸体禁止令」、1872(明治5)年には屋外での裸体の露出やわいせつ物販売などを取り締まる「違式註違(いしきかいい)条例」が東京府で施行されました。この条例に基づいて、警察はあちこちにあった男性の象徴をかたどった金精(こんせい)様(当時の廓では千客万来の願掛けとして拝まれていた)などを強制撤去していきました。この条例は地方にも浸透していきました(※9)。
 明治維新前後の田縣神社の豊年祭では、男茎形を担ぐ本来の形が変化して、男茎形の上にわら人形をまたがらせる形で載せて担いでいましたが、1885(明治18)年には風俗上好ましくないとされて、わら人形と男茎形が分離されたことがあります。その後、漠然と武家人形と言われていたわら人形は廃止され、いつの間にか御祭神である玉姫命の夫である建稲種命(たけいなだねのみこと)と称される像に変化しました(※10)。現在の豊年祭では、この御神像は御前(ごぜん)御輿に納められて担がれます。

 ●○●キリスト教と性文化●○●
 ちなみに、明治に入って裸体禁止令、違式註違条例が次々と発布されたのは、西洋人の視線への配慮からと言われています(※9)。当時の日本人は性に大らかというよりも、裸体と性とを結びつけて考えることがなかったため、人前で裸体や性器を隠そうとする意識が極めて低かったようです。川村邦光・大阪大教授(宗教社会学)も、「体の露出をあまり気にしない日本では、性器そっくりの石像を祭っても性的な興奮を喚起することはなかったようだ」と語っています(※11)。
 しかし、キリスト教を基盤とする西洋人にとって、裸体はタブーでした(※9)。旧約聖書の創世記には、アダムとイブは、神に禁じられていた実を食べたため、裸に羞恥心を感じるようになったとの記述があります。西洋人は裸体と性とを結びつけがちで、裸体を見せることを不道徳で恥ずかしいことと考えていました。そこで西洋を手本に「近代化」を目指した政府は、彼らの目を気にして、いろいろな禁止令を発布したというわけです。幕末から明治期には西洋人が多く来日しました。彼らにとって、無造作に露出される日本人の裸体や性器は好奇の対象となり、好奇のまなざしに触れた日本人の裸体観をも変化させ、次第に日本人にも裸体に対する羞恥心が芽生えたと考えられています(※9)。
 田縣神社の豊年祭や、同じく男性の象徴を掲げた御輿が出る金山神社(神奈川県川崎市)の「かなまら祭り」(4月第1日曜開催)に欧米を中心とした外国人が大勢集まるのは、キリスト教的な価値観の裏返しなのかもしれません。西洋でも、古代ギリシャのディオニュソスの祭りではファルス(男根)を運ぶ行列がありましたが、キリスト教が浸透してから、そのような風習は絶えたようです。ヒンズー教寺院ではリンガ(男根)が祭られていますから、その文化になじみのあるインド人ならば、それほど好奇の目で豊年祭を見ることはないかもしれません。
 実は、豊年祭の大男茎形は1921(大正10)年には約70センチでしたが、年を経るにつれて巨大化し、原木もマツからヒノキへと変わり、現在の2.5メートルにまで達しました。日本人のまなざしが「西洋化」して、好奇の目から祭りに集まる人々が増えたことが影響しているのかもしれません。このような変化に、「祭り全体から宗教的真剣さは影を薄め」(※10)と眉をひそめる人もいますが、今もなお、祭りの主役が原型を留めていることは、意義深いことではないでしょうか。

●○●伝統を大切に●○●
 明治以降、変化した日本文化のなかで、田縣神社の豊年祭はますます貴重なものとなっています。過疎に悩む岐阜県吉城郡宮川村(現・飛騨市宮川町)では、村起こしにつながればと、子宝や安産にご利益がある金清(きんせい)神社の新たなご神体として、樹齢約600年のトチの木2本で巨大な男女の象徴を制作しました。しかし、1992年に完成した本体のリアルさに念のため村の駐在所に相談したところ県警本部にまで話が上がり、「不特定多数に公開すれば、わいせつ物陳列罪に抵触するのでは」とのこと。田縣神社や大縣神社など昔からの伝統行事とも違い、見過ごすわけにはいかなくなるかも・・・・・・との返事でした。(※12)。金清神社の遺跡からは縄文時代の祭儀用の石器で、男性の象徴をかたどった石棒が800点も発掘されており、制作の根拠は無くもないのですが、現代の法律の前には通用しなかったようです。(※13)。
 時代とともに少しずつ変わってきたとはいうものの、原初の祭りの匂いを漂わせる田縣神社の豊年祭は、その宗教的な意義を理解したうえで次世代に伝えていきたい貴重な習俗です。
 
(藤山みどり)
※参考資料:
※1.『朝日新聞』名古屋版夕刊2008年1月8日
※2.『名古屋タイムズ』2006年3月14日
※3.『中日新聞』2000年1月1日、岡村直樹「陰陽2つの性器崇拝」『土地改良』(社団法人土地改良建設協会)2005年3月号
※4.『朝日新聞』名古屋版2011年3月15日
※5.丹羽欽明著『続々田県の宮見聞録』(田県神社社務所)1965年
※6.『毎日新聞』1999年6月27日
※7.杉岡幸徳「奇祭をたずねて三十歩」『サイゾー』2006年4月号
※8.吉野裕子著『扇』(人文書院)初刊1970年、再刊1984年
   本書にも、『古語拾遺』の一節が引用されている。
※9.中野明著『裸はいつから恥ずかしくなったか』(新潮社)2010年5月
   なお、日本人の裸体を見る外国人の眼が日本人の裸体観を変容させたという主張は歴史学者・今西一や
   美術史学者・若桑みどり氏らも行っていると、著者は上記著作の中でも紹介している。
※ 10.沼沢喜市「田県神社の豊年祭」『民族学研究』21号1~2(日本民族学会編)1957年5月
※ 11.『朝日新聞』2005年8月12日夕刊
※12.『中日新聞』名古屋版1992年10月9日
※13.『読売新聞』1992年12月9日夕刊