1995年4月15日大谷光真門主「終戦五十周年全戦没者総追悼法要ご親教」

 本日、本願寺御影堂において有縁の方々とともに、終戦五十周年全戦没者追悼法要をお勤めすることができました。今日まで、千鳥ヶ淵墓苑をはじめ、各教区・組・寺院等で全戦没者総追悼法要がおつとめされてまいりましたが、それらの思いをここに結集し、あらためて、そのこころを確かめさせていただきますことは、まことに意義深いことと存じます。
 まず、当時の敵味方の区別をこえて、十五年にわたるアジア太平洋での戦争、第二次世界大戦、各地での争いが原因で亡くなられた方々に、心から追悼の意を表しますとともに、深い痛手を受けられたすべての方々の苦難をしのばせていただきます。
 戦争のために傷つき、斃(たお)れた方々の深い悲しみや切実な平和への願いに思いをいたす時、私たちは、心をひきしめ、襟(えり)を正さずにはおれません。そして、とらわれをはなれて、過去の事実を確かめ、省み、戦争を繰り返さないよう、すべての人々に平和が実現するようにつとめなければなりません。それが、死をむだにしないということであります。
 省みますと、私たちの教団は、仏法の名において戦争を肯定し、あるいは賛美した歴史をもっております。たとえ、それが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。人類の罪業ともいうべき戦争は、人間の根源的な欲望である煩悩にもとづいて、集団によって起こされる暴力的衝突であります。そこでは非人間的行為が当然のこととなり、「いのち」は物として扱われ環境が破壊されます。それへの参加を念仏者の本分であると説き、門信徒を指導した過(あやま)ちを厳しく見据えたいと思います。宗祖の教えに背(そむ)き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前(おんまえ)に慚愧(ざんき)せずにはおれません。
 思えば、阿弥陀如来は、罪業を重ねる私たちを憐(あわ)れみ、平等のさとりに導こうとして、本願をたてられ、よび続け、はたらき続けて下さいます。私たちは、この阿弥陀如来の本願によびさまされて、みずからの罪深い姿をありのままに認め、慚愧すると同時に、限りないいのちのはたらきに支えられ、導かれて歩むのです。
 親鸞聖人は、有限で利己的な人間の営みを、絶対の真実と取り違えることのないようにと教えられました。私たちは、常に阿弥陀如来の大悲・智慧(ちえ)のお心に立ち返り、世界の人々が強い信頼で結ばれ、本当の平和がもたらされることを念願せずにはおれません。
 限られた資源を独占しようと貪(むさぼ)る生き方、人間同士、分け隔てをし、優劣をつける心は、すべて争いにつながります。言論や信教の自由は、いのちを大切にし、個人を大切にする基礎です。世界の各地で争いの絶えない今、すべての「いのち」を尊ぶ仏教の精神を身につけ、実践していくことこそ、私たちの課題であると申せましょう。
 本日の法要に当たり、あらためて如来の智慧と慈悲に生かされる者としての責務を思い、平和への努力を重ねてまいりたいと存じます。

一九九五年四月十五日


出典:同朋部編『戦争と平和に学ぶ』本願寺出版社2007年9月