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宗教こぼれ話

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2013/10/19 第二十四回 「恐山・・・・・・人が死んだら、どこに行く?」 

情ちゃん ●夢のお告げで開かれた霊山
 青森県の下北半島にある恐山(おそれざん)は、比叡山、高野山と並ぶ日本三大霊場のひとつです。恐山とは、カルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)を取り囲む釜臥山(かまぶせざん)、大尽山(おおづくしやま)、地蔵山、鶏頭山などの外輪山を含む一帯を指します。8つの峰が取り囲む形が、清浄無垢を象徴する八葉の蓮華にたとえられています。
 恐山は、天台密教を大成させた慈覚大師円仁(794~864)が862年ごろに開創したという伝承があります。慈覚大師が唐で学んでいたころ、夢で「国に帰り、東方行程三十余日のところに霊山あり。温泉が湧出していて、これを浴びるものは諸病悉く治癒する。猛火は焔々として地獄の相を現じている。そこに地蔵一体を彫作して、一寺を建てよ」とのお告げがありました。地蔵菩薩は、釈迦が入滅してから56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの仏がいない時代に、衆生を救うとされる菩薩です。そこで帰朝後、東北へ行脚して釜臥山で修行したのち、この地を見出し、地蔵菩薩を刻んで寺を建立したといわれています。この縁起は定かではなく、恐山が天台系修験者の山岳修行の場だったことに由来するのではと推されています。
 天台宗の寺院は15世紀に廃絶し、16世紀に曹洞宗円通寺によって恐山菩提寺として再興されました。恐山菩提寺は今も、むつ市中心部にある曹洞宗円通寺を本坊とします。

●恐山の特異な景観
 むつ市中心部の田名部から恐山菩提寺までは路線バスで40分ほどの道のりですが、昔は険しい山道を歩いて登るため早朝に出発しなければなりませんでした。恐山周辺には、春には農村は豊作祈願、漁村は大漁祈願のために、秋には豊作や大漁のお礼のために集落単位でお参りする習俗がありました。夏の大祭(7月20~24日)には、新仏の歯骨を納めるなど主に死者供養のために個別に参拝していました。大祭の日に地蔵菩薩に祈ると、死者を苦行から救うことができるといわれてきました。
 参拝者は、あの世との境界にあるとされる三途川(さんずのかわ、正津川)に架かる太鼓橋を渡って寺へと向かいます。総門をくぐり、参道を通って、本尊の延命地蔵菩薩が安置されている地蔵堂本殿の脇へ進むと、慈覚大師が見た夢のお告げ通り、地獄のような風景が広がります。火山性ガスが吹き上がり、硫黄臭が充満する岩場には、ガスが噴出する「無間(むげん)地獄」「修羅王地獄」「重罪地獄」などの地獄が点在しています。岩場を下ると「血の池地獄」や、三途川の河原という「賽(さい)の河原」もあります。そこを抜けると一転して極楽のような風景、宇曾利湖の翡翠色の湖水に白砂の浜が映える「極楽浜」が広がります。
 
 
▲宇曽利湖に注ぐ三途川に架かる太鼓橋。罪人は渡れないとか ▲柵には草履と手ぬぐいが結び付けられている  
 
 
無間地獄。昔は熱湯が湧きあがっていたという 血の池地獄。もとは真っ赤な色だったという  
 
 
大尽山を望む極楽浜。大祭時には風車が立ち並ぶ
●生者と死者をつなぐ場所
 亡くなった人のために卒塔婆を立てて供養する人もいますが、幼い子を亡くした人は「賽の河原」で石積みをし、地蔵菩薩に手ぬぐいや草履を手向けます。空也上人(903~972)の作とも伝わる「西院の河原(さいのかわら)地蔵和讃」でうたわれているように、幼くして死んだ子は親不孝の罪の報いで、賽の河原で石を積んで塔を造ろうとするたびに地獄の鬼に崩されるという責め苦に苛まれており、その幼な子を救う存在が地獄菩薩と信じられているからです。そこで、親が亡き子に代わって石を積んで子の追善供養をし、地蔵菩薩に供養するのです。
 「賽の河原」近くの地蔵堂には、草履や衣類が奉納されています。亡き子の成長に合わせて新品の衣類を納める親や、亡き息子の相手にと花嫁人形を持参する親もいるそうです。積み石や地蔵菩薩のまわりには、子どもがあの世で遊べるようにと立てられた風車が並んでいます。その地蔵堂の奥、鶏頭山の手前の樹木に手ぬぐいや草履をかけ、亡くなった人の好物を供えて名前を呼ぶと、霊魂が降りてきて再会できるとも言われています。
 「賽の河原」の先にある「血の池地獄」には、妊婦を亡くした家族が寺から受けたお札を投げ、お札が浮いたままだと成仏していないため供養が必要とされていました。
 「極楽浜」の砂浜に風車を立て、お供え物をして拝んだあと、極楽浄土があるといわれる西の方角、宇曽利湖の向こう岸にそびえる大尽山に向かって、亡くなった人の名前を叫ぶ「魂呼(たまよ)び」をする人もいます。
 夏の大祭や秋詣り(10月の3日間)には、女性霊媒師であるイタコが待機する総門脇の小屋の前に、口寄せ(死者の霊を降ろして言葉を伝えること)をしてもらおうと人々が長蛇の列をつくります。
 
●「人が死ぬと恐山に行く」
 恐山の特異な景観やお参りの風習をみると、「死ねば、恐山(おやま)さ(へ)行く」という下北半島の言い伝えが現実味を帯びて迫ってきます。恐山周辺の集落には、「恐山のふもとの町で長患いをしていた男性の姿が、死ぬ間際に、恐山のすぐ手前の地区で見かけられた」、「死にかけた女性が、『恐山の山門に行ったが「来るのはまだ早い」と言われて戻る途中、三途川で、死んだばかりの釣好きの息子に会い、釣り道具を忘れたので早く山に届けてくれと頼まれた』と言った」などの話が伝わっています。
 人が死ぬと霊魂が山に行くという山中他界観は、仏教伝来以前の古来の山岳信仰と結びついており、恐山周辺だけではなく月山(山形県)や立山(富山県)の周辺など日本各地にあります。地方によって異なりますが、死者の霊魂は、四十九日間は家の軒先や屋根の上にいて、それから集落近くの山に、年数が経つと徐々に高い山へと上り、最後は近くの霊峰に上って神になるなどと考えられていました。
 恐山にはまた、霊魂は海に帰っていくという海上他界観もあり、宇曽利湖を大海と見立てて、「供養船」に供物を載せて成仏を祈願することもあったそうですが、最近は見かけなくなりました。人が死ぬと霊魂は海の彼方に行くという他界観は、周囲を海に囲まれた沖縄にも見られます。太陽が昇る方角、東の彼方にあるニライカナイは、死者が帰るところであり、人が生まれ出てくる始原の地とも考えられています。いずれにせよ昔の日本人は、身近な自然の彼方に死者が赴くと考えていたようです。

●仏教に基づく「あの世」の世界 
 仏教には、人が死ぬと霊魂が山あるいは海に行くという考えはありません。開祖・釈迦は死後については説きませんでした。けれども輪廻思想が浸透していたヒンズー文化圏に広まるにつれて、仏教にも来世観が成立しました。仏教の来世観は、中国を経て日本に伝来し、時を経るにつれて変化を遂げました。
 恐山菩提寺の境内には、こうして醸成された「あの世」の風物がそろっています。「地獄」は、人間は「天」「人間」「阿修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の6つの世界に輪廻転生するという「六道輪廻」思想とともに誕生した他界です。当初、地獄は1つでしたが、のちに136種類にも分化します。恐山菩提寺の境内にもある「無間地獄」とは、5世紀に成立した『阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)』に描かれた八熱地獄のうち、苦しみが絶え間ない最悪の地獄です。「血の池地獄」は、中国で書かれた『血盆経(けつぼんきょう)』に基づくもので、出産や月経の血で地を汚す女性が落ちる地獄とされています。
 「賽の河原」で死んだ幼な子が地獄の鬼から責め苦を受け、地蔵菩薩に救われるという話は、「地蔵和讃」とともに日本各地に広まっていますが、これは家族のつながりを重視する日本で、中世以降に民間信仰と地蔵信仰が結びついて生まれたもののようです。
 「極楽浜」の「極楽」は、「地獄」と対の「天」とは異なり、極楽浄土信仰から生まれたものです。極楽浄土は、阿弥陀仏がいるとされる西方の仏国土(浄土)で、ここに生まれ変わると阿弥陀仏の説法により悟ることができるといわれています。日本では阿弥陀信仰が広まったため、弥勒仏や釈迦仏がいる他の浄土よりも極楽浄土が有名になり、浄土の代名詞のようになりました。
 恐山菩提寺の境内には、日本仏教における「あの世」のイメージが投影できる景観が多く、それぞれに「あの世」の風物の名前が付けられています。不謹慎を承知でいえば、さながら「あの世」のテーマパーク。昔は、境内にある温泉小屋での湯治を楽しみに訪れる参拝者も多かったそうですから、“温泉付き「あの世」のテーマパーク”ともいうべきでしょうか。仏教が説く「あの世」を目に見える形で提示し、「死ぬと恐山に行く」という言い伝えに則って、亡くなった人が今も恐山にいると訴えかけているようにもみえます。
 古来の民俗信仰と仏教とで、亡くなった人の赴き先が異なっていようとも、現代日本では否定されがちな「死後の世界」、亡くなった人が存在し続けていることを肯定していることに違いはありません。亡くなった人がいるとされる世界を「この世」に展開することで、生者を死者とつなぐ場所という役割を演出しているようです。 

●死者との語らいを実現させるイタコ
 「あの世」との接点ともいうべき恐山は、死者の霊を降ろすというイタコが活躍するのにふさわしい舞台です。メディア報道のせいもあり、恐山といえばイタコが有名ですが、恐山菩提寺は口寄せをする場所を貸しているだけで、イタコとは無関係です。その歴史は比較的浅く、昔から東北地方にいたイタコが、恐山の大祭にいわば出張営業するようになったのは、昭和20年代後半からのようです。亡くなった人の名前と命日を伝えると、経文を唱えて霊を降ろし、会話することができます。
 真偽はともかく、自殺者の遺族がイタコを訪れることも多く、その悲嘆(グリーフ)ケアの効果が注目されています。イタコの口寄せによって、8割近い人が癒しの効果を得られたとする青森県立保健大学の藤井博英教授の研究もあります。残念ながら、最盛時には恐山に40名超も集まったイタコも高齢化が進んで、近年は4人になりました。志願者は少なくないのですが、「欲のない人」で「神仏に対する信心がもてる人」が少ないため修行が続かず、後継者が育たないそうです。

●死者への思いを預ける場所
 たとえイタコがいなくなったとしても、恐山が、その存在価値を減ずることはないでしょう。恐山菩提寺の院代(住職代理)を2005年から務めている南直哉(じきさい)師は、著書『恐山』で、恐山が1200年も続く霊場である最大の理由は「死者への想いを預ける場所」だからで、「恐山は『もう一度会いたい、声が聞きたい』『また会いに来るからね』という死者への想いによって支えられてきた」と述べています。
 恐山には、亡くなった人への思いを募らせて訪れる人が、昔も今も変わらず大勢います。恐山は、亡くなった人がそこにいるといわれる場所で、そう思わせる場所でもあります。そこでは、心おきなく亡くなった人と語らい、亡くなった人への思いを吐き出すことができます。恐山は、そういう思いを受けとめてくれる場所なのです。皮肉なようですが、社会や教育の場で「死後の世界」や「霊魂」が否定され、宗教が軽んじられるようになった時代であればこそ、そして人間関係が希薄になって親しい人との死別からの立ち直りが難しくなってきた時代であればこそ、いっそうこのような場所の価値が高まってくるような気がしてなりません。
(文責・藤山みどり)
参考文献
恐山やイタコについて
・宮本袈裟雄・高松敬吉『恐山』佼成出版社1995年6月
・楠正弘「恐山信仰」『東北霊山と修験道』名著出版2000年11月
・南直哉『恐山』新潮社2012年4月
・『読売新聞』青森版 2006年7月30日、『朝日新聞』2010年12月24日
・(社)むつ市観光協会サイト http://www.mutsu-kanko.jp/guide/miru_01.html
他界観や地獄について
・藤原聖子『三大宗教 天国・地獄QUEST』大正大学出版会2008年10月
・柳田國男「先祖の話」『柳田國男全集13』筑摩書房1990年4月
・玄侑宗久『死んだらどうなるの?』ちくま書房2005年1月
・比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社2000年5月