文字サイズ: 標準

研究員レポート

バックナンバー

こころと社会

宗教情報センターの研究活動の成果や副産物の一部を、研究レポートの形で公開します。
不定期に掲載されます。


2016/09/21

第9回日本スピリチュアルケア学会学術大会(武蔵野大学)より

こころと社会

葛西賢太

 2016年9月17日・18日、日本スピリチュアルケア学会の第9回学術大会が東京の武蔵野大学にて行われた。以下はその内容と意義についての報告である。私自身が運営側に関わっていたこと、そして当日そのままの報告では参加しなかった読者には伝わりにくいであろうから、正確に漏らさず内容を再現するのではなく、むしろ一般の読者に伝わるように大きな視点からの紹介をするに留める。
 学会では、「ケアの現場」を離れた抽象度の高い議論も行われた。今回、私が痛感したのは、「スピリチュアルケア」とは何かを知ってもらうためには、現場を離れてもあらゆる「ことば」を試してみる必要である。「スピリチュアルケア」にたずさわる者たちには、手立てをつくして「スピリチュアルケア」とは何かを知ってもらう責任もあるからだ。
 

「スピリチュアル」ケアとはいったいなにものか

 「スピリチュアル」の名を冠したものに私たちはあまりいい印象を持っていない。そのために、この学会が目指す「スピリチュアル」ケアとは何であるかについて、簡単な説明を試みたい。人生の大きな問題と向き合う状況での医療現場(緩和ケアなど)の要請などを強い背景に持つのが、この「スピリチュアル」ケアだ。武蔵野大学の小西達也教授(大会長)は、大会の冒頭にあたる基調講演で、スピリチュアルケアを、仮に、「生きることのサポート」と定義して議論を始めよう、と呼びかけた。
 スピリチュアルケアとは、翻訳語である。世界保健機関(World Health Organization)の緩和ケアの定義の中には、身体、精神、社会の面でのケアの他に、「スピリチュアルな」ケアを行うと明言されている*。このスピリチュアルケアとは、気功やレイキや手かざしなどとは異なる。普通の緩和ケアでは「オーラを見る」ということもしないし、「先祖の祟り」を強調したり、「悪霊」や「魔」を「祓う」ための儀式を行ったり、魔除けや開運のための壺やら装身具やらを売ったりすることもない。また、特定の宗教を押しつけられるわけでもない。スピリチュアルケア学会の倫理規程においては、このようなことが禁じられている**。

*WHOの緩和ケアの定義(2002年改訂版) 日本ホスピス緩和ケア協会のウェブサイトより
**スピリチュアルケア師 倫理規程

 WHOの緩和ケア定義は「特定の信仰や価値観を持つ人にとって、その信仰や価値観が緩和ケアの場でも大切にされるべきである」という主張と読むことができる。たとえば、イスラム教徒の患者であれば、豚肉を除外した食事への配慮などがなされるべきであり、カトリックの重病患者が日曜日のミサに長く立ち会えずに寂しい思いをしていたら、病室その他で神父に話を聞いてもらったり人生の締めくくりのためのカトリックの儀式(終油など)をしてもらったりする「権利」を確保する、ということがその例となる。日本(そしてフランスなど)では、公的な空間で宗教的な儀式を行うことは難しいが、そして、特定の信仰を持たない人間が他の宗教にさらされない自由は重んじられているが、いっぽうで、信教の自由の中には、病院などで個人的に自分の信仰の儀式に立ち会ったりすることを確保される権利というのも含まれている。これは特定の信仰を持つひとのためだけではない。そのようなものをもたない人も、自分にとって重要な価値観を大切にしながら話を聞いてもらうことには意義がある。
 病者を訪ねて傾聴するという活動の内容は、その担い手に委ねられてきた。多様な価値観を持つ人々が患者として傾聴者を受け入れるのだから、傾聴者には一定の訓練を受けて、資格を持った人であることが望ましい。傾聴者は守秘義務に通じているべきであるし、特定宗教に限らず、不可知論者や無神論者であっても、患者に自分の主張を押しつけるような人であってはならない。超高齢化社会に突入した日本にとって、WHOが考えるように、このような担い手が育成され研修される場所の意義は大きい。日本スピリチュアルケア学会は、そのような担い手を育成し、一定の水準を満たした良質な傾聴者であることを認定し、継続しての研修を提供する場として設けられた。(学会成立以前から、複数の団体が苦心して「場」作りの努力を重ねてきていた)
 傾聴の担い手として、米国ではチャプレンという存在がある。辞書には「病院付き牧師」などと訳されることもあるが、病院、軍隊、学校、スポーツチーム等々に所属して、「こころのケア」を担う、社会から尊敬された専門家である。米国でチャプレンとしての訓練を受けた先駆者が日本にもおり、いっぽうで日本国内で独自に傾聴の取り組みを重ねてきた先駆者がいる。それらの取り組みを、特定個人の自己犠牲に留めないため、現在、スピリチュアルケア学会の認定を受けた8つの研修プログラムが存在し、そこから、現在に至るまでにすでに100名をはるかに超える担い手を輩出している。あわせて指導者、また学術的な裏づけも行っていくための専門職も生みだされている。

第1日目のシンポジウム:「さまざまな人間観からスピリチュアルケアの根本を照らす」

 このシンポジウムでは、どちらかといえばスピリチュアルケアを外側から理論的に見るような提案が四つなされた。
 東京基督教大学の稲垣久和氏は科学の哲学、公共哲学の専門家だ。稲垣氏の高密度の議論を要約するのは難しいので私なりにざっくりとまとめ直してみよう。科学対宗教、という対立で論じられることが多い二つは、実はかなり性質の異なるものなので、二つを対立させて何かを進めようとすると道を踏み誤ってしまう危険がある。稲垣氏の言葉で言えば、「宗教は世界観そのものと同等になり得るが、科学は世界観と同等にはなりえず、単に近代以降の人間の生みだした文化の一つに過ぎない」。稲垣氏はとてもていねいに順序立てて、私たちの社会を創っている文化の中で、宗教がどのような役割をもっているか、そして、スピリチュアルケアというものがどのような基盤に基いているのか(科学のみを基準にすることの危うさ)を説明された。その説明は大きな地図を広げて大航海の道筋を聴くようなものだった。ケアの質を深め高めるためには倫理的・哲学的にどのようなことを考えるべきかを説かれた。
 稲垣氏の議論は密度が濃いために、その質を落とさずにここで説明することができない。私としては、「スピリチュアルケアをどう説明するか」を外側から、哲学や倫理を含んだ諸文化を俯瞰して説明するうえで、これからのスピリチュアルケアの担い手には欠かせないお話であったということを強調しておきたい。
 千葉大の小林正弥氏は、ハーバード大での倫理的公案を扱ったテレビ番組(「白熱教室」)のしきり役として著名だが、人間の幸福wellbeingを哲学的に問い続け、また学者ではない普通の人々に噛み砕いて熱意をもって伝える仕事を重ねている。今回は「ポジティブ心理学」という、21世紀初頭にアメリカの心理学会で始まった運動が哲学的にはどのような意味をもつかについてお話された。「精神病理学」ということばに見るように、心理学や精神医学はこれまで人間の病理ばかりを追い続けてきたのだが、人間の健康や幸福や強みについても心理学で研究しよう、という講演が、米国心理学会の当時の会長であったマーティン・セリグマンによって行われた。このセリグマン講演から、人間のポジティブな側面に焦点を当てた、ポジティブ心理学という運動は始まった。
 人間が幸福を感じるのはいろいろな場面があり、単なる一時的な快楽もある。軽い幸福happinessよりも深い意味での幸福wellbeingをとらえるために、哲学者アリストテレスのエウダイモニアという概念や、仏教瞑想をきっかけに広く知られるようになったマインドフルネス概念、心理学者チクセントミハイが提唱したフロー体験などと関連づけて、小林氏は大きな見取り図を示してくれた。そんな小林氏の仕事は、地域包括ケアを重視する近年の医療・看護の領域からも注目されている。そもそも、幸福とは本当のところなんなのかということを真摯に問わなければ、ケアをなんのために行うのかがみえないではないか
 京都大の西平直氏は、技の習得において、限りない意識的修練を求めながら、その極致においてはむしろ意識的であることを手放す(「我をとる」)という、日本的な究道の文化(武道、茶道……)についてお話しされた。会場におられた多くの聞き手は、自分自身が患者や語り手のそばに「寄り添う」という厳しい訓練を重ねる。会場の聞き手は何かを「つかんだ」体験のことを、前二氏のお話とは違う観点から、西平氏の話に想起したのではないかと思う。
 武蔵野大のケネス田中氏は「わたし(への執着)を手放す」(アクセプタンス)ということを、ユーモアあふれる実例を通して語られた。田中氏自身が浄土真宗の「僧侶」であり研究者でもあり、また日本生まれ米国育ちということから、日米比較、宗教比較を提示された。たとえば、日本では僧侶が衣を着て病者を見舞うとしかられるが、アメリカでは僧侶はむしろ寺のメンバーの見舞いに行かないとしかられる、というのだ。また、象徴的に死を描写した絵本として有名な『葉っぱのフレディ』の著者が、カトリックであるが仏教に深い関心をもってこの絵本を作成した背景を取り上げた。
 

第2日目のシンポジウム:現場実践の視点からスピリチュアルケアを照らす

 4つの部会にわけて24件の個人発表も行われた。私は一つの部会の司会者を仰せつかったのでゆっくり発表を聴く余裕がなかったが、いくつも充実した報告が行われたとだけ記しておく。

 2日目のシンポジウムについて報告する。
 移動傾聴喫茶カフェ・デ・モンクを始めた金田諦應氏は曹洞宗の僧侶であり、宮城県で僧侶として自殺防止活動などにもたずさわっていた。2011年3月11日、東日本大震災のあと、読経しながら海岸を歩き、多くの僧たちと葬儀読経ボランティアや傾聴ボランティアを行う。この日の報告では、数多くの写真とともに、僧侶(モンク)に文句(モンク)の一つでも漏らして楽になってほしいという思いが結集された「カフェ・デ・モンク」について、また仮設住宅の現状や震災後に感じたことをお話しくださった。
 二番目の薬物依存治療の専門家である松本俊彦氏については、私の専門と近いこと、そしてスピリチュアルケアの関係者にはおそらくその仕事が知られていないであろうことから、少し詳しく報告したい。
 松本氏は、リストカットをする人の9割が(見せつけではなく)「人に観られぬように」「人に言わないように」しているというデータを示し、自分を傷つける行為が実はβエンドルフィンなどの一定の快や安堵感をもたらす物質を脳内に分泌させるという知見を共有し、「耐えがたい【何か】を日常にかかえているから、それを耐えるために自らを傷つける行為を行うのだ」という現象について、会場に集まる傾聴の担い手たちに問いかける。そして、保健室などにたむろする若者にも「自らを傷つける行為」をやめろというよりも、まず「よく来たね」と声をかけることから始めよう、と提案する。
 松本氏はSMARRPという、薬物依存症者のための集団療法の開発に関わられた方であり、質疑の中でも、ひとりで背負わない(ケアの担い手、傾聴者たちはひとりでかかえがち)ということの重要性と、グループで共有することによって新たな治療可能性が開かれることを示唆した。被治療者も、治療者もともにグループで臨むことの意味を強調された。ご自身『スピリチュアルケア学会なんて自分には場違いではないか』とおっしゃりながらも力一杯お話しくださり、そのなかに、ケアの受け手にも提供者にも深いメッセージと助言を入れてくださった。
 松本氏が例示された自傷行為は、スピリチュアルケアの傾聴者たちにとっても他人事でないどころか、クライエントや、クライエントの家族、ケアの担い手自身も無縁ではない体験である。リストカットこそしなくても、また薬物は服用しなくても、ストレスでたくさん食べたり、髪の毛をかきむしったり爪を噛んだり……といった行為は枚挙にいとまがない。
 耐えがたい何かに耐えるために身体を傷つける(薬物を使用する)という現象について詳しくは(松本氏は宣伝されなかったが)カンツィアンとアルバニーズによる『人はなぜ依存症になるのか』星和書店、2013年(松本訳)などを参照願いたい。
 国立がんセンターのカウンセラーであるキャサリーン・ライリー氏は、とくに若い癌患者たちとの関わりに焦点を当てて、死を予期しながら若者たちが人生を味わう姿を語り、小児がんの若者たちの院内パーティの動画を見せてくれ、また若者と共有した「タイタニック」の生死の狭間を語ったテーマ曲を美しい歌声で披露してくださった。先の松本氏の発表を受け、自助団体の重要性として、ご自身が苦しい思いをかかえたときにはEmotions Anonymousという自助団体の集いに参加するということにも言及された。

 午後には、日野原重明理事長、高木慶子副理事長による記念講演「現代社会におけるスピリチュアルケアの必要性」が行われた。
 日野原氏の講演は、諸宗教が人間を超えた大いなるものをどう表現しているかを端的に紹介し、それをWHOが健康の定義において視野に入れる努力をはかったこと、そして医学が「科学にもとづくアートart based on science」であるとして、アートの深みを受け止めたスピリチュアルケアを伝えていこうと説くものであったと私は受け止めた。ここでいうアートとは単なる「芸術」ではなく、高度な技芸(手術の技術や検査の技術などももちろん含む)から、患者の動作などから敏感に兆候を感じ取るセンスに至るまでの幅広いものが想定されていよう。
 高木氏は、昨今のさまざまな災害や凄惨な事件を取り上げながら、それらが受容・理解困難なものであるために「喪失の悲嘆」が大きいことを確認した。そして、孤立して苦しむ人によりそい、各自の持つ「スピリチュアリティ」、人智を越えた大いなるものといういのちの源泉につなぎ直すお手伝いをする、ケアの担い手たちの使命を強調された。
 会場のみなを励ます両氏の講演ののち、両氏は、スピリチュアルケアに関わる資格を認定された人々への授与式を行った。まもなく105歳になる日野原氏が、証書の授与にあたり車椅子から腰を上げて立ち上がられ、一人ひとりに証書を渡していたことに、会場のみなは驚き、また特に授与された人々は感動したと思われる。(実は私も「指導資格」というのを頂戴した一人であった)。
 
ケア資格認定証の授与式
201609211618_1-300x0.jpg
 
 

今後

 傾聴者の育成という事業に取り組んでいるこの学会で松本氏がされた話は、先駆者が過去に開拓された領域を、今回資格認定を受けた多くの有資格の傾聴者たちが集団で担っていく時代になっていること(超高齢化や在宅死増という動きの中で)、そして社会の趨勢に対抗するには数も質も高めていく必要があるというメッセージでもあると思われた。
 そのためには、有資格の傾聴者たちは、適切な倫理を保持しつつ、生涯学びを深め続ける必要があるだろう。また、「スピリチュアルケア」とは何かを、ことばと行いを持って、社会一般に向けて、もちろん医療界・看護界・福祉界に向けて、適切な説明を行いつづける責任があるだろう。自分の宗派や集団にしか通じない言葉ではなく、社会一般に通じる言葉で語るための工夫が必要だ。学会の担う責任はますます重くなってくると思われるのである。
(宗教情報センター研究員 葛西賢太*)
*上智大学グリーフケア研究所客員所員

昨年の日本スピリチュアルケア学会の「定義構築ワークショップ」について、東北大学実践宗教学ニュースレターの第8号に葛西研究員が報告しています。あわせてお読みくださいますと幸いです。