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世界の宗教

世界の諸宗教に出会う

連載開始にあたって

〈出会い、気づき、変化する〉

 人のグローバルな移動がますます盛んになり、わたしたちも、旅先だけでなく、この日本でも、異文化・世界の諸宗教と出会う機会が増えました。
 旅先で見かける教会や礼拝所のエキゾチックな装飾に、驚きとともに好奇心が、ときには反発や嫌悪がかき立てられることもあるでしょう。韓国からの熱心なキリスト教や、少数派ながらも服装で見分けがつくイスラームなど、近年の外来宗教や、移民の宗教が、国内に広がっています。宗教儀礼や、講演や、説法は、適切な単語で検索すれば、いまや、Youtubeなどで、パソコンの前に座ったまま、録画や生中継を見ることができます。
 そんな時代に、世界のさまざまな出来事の宗教的背景を知ることの意義は大きいです。諸宗教に対する誤解・曲解から始まることもあるかもしれませんが、無関心よりは歩み寄りの可能性があります。当初の違和感は、その文化や宗教との距離が縮まっていくにしたがって、好奇心、好感、あるいは許容へと変わっていくこともできます。


日本ハリストス正教会の聖母マリア像。

 

 自分と違うものと出会うことは、双方に気づきと変化をももたらします。
 異なる文化やさまざまな宗教と出会い、違いに気づき、自文化を新しい視点から見直し、自分にとっての当たり前が当たり前でない世界があることを知るときには、自分の中で少しずつ変化が起こっています。

 たとえばヨーロッパ世界の拡大とともに、他宗教と出会ったキリスト教は、キリスト教とはいったい何であったのかを考察していきました。キリスト教中心にあらためて世界を解釈しなおす反応もあれば、世界の諸宗教との比較という学問の形もありました。そのヨーロッパの人々にとって、無我や空を説く仏教は、当初、空虚を崇拝する無神論として恐れられました。けれども現在では、心の穏やかさと身体のリラックス以上のものをもたらす合理的な実践として、瞑想を日常的に行う人が増えています。
 そして、禅をまなぶ修道士があらわれたり、キリスト教における祈りの伝統が再興されるなど、他宗教との出会いと気づきは、キリスト教の中にも変化をもたらしていきました。
 



チベット仏教の曼荼羅。
砂でつくられ、儀式が終了したら消し去られる。


〈世界の諸宗教と、どのように出会うか〉

 宗教情報センターでは、

  • 信仰する人の姿を伝える
  • 学術の裏付けをもって発信する
  • 継続して宗教現象を追う
この三方針を踏まえて宗教についての情報を、ウェブにて発信してきました。

 本年、宗教情報センターでは、世界の諸宗教についての、第一線におられる研究者の方々による連続講演会を行なってまいりました。先生方には、世界の諸宗教が、どのようにメッセージを伝え、どのように他宗教と出会ってきたかについて、それぞれのご専門の立場から語っていただきました。
 
 この連続講演会の内容の一部を、これから約一年かけて、連載いたします。

アラビア語で読まれているイスラームの聖典、
聖クルアーン。表紙には美しいアラビア書道。

 

〈「世界宗教World Religions」と、「世界の諸宗教Religions in the World」〉

 なお、連載の開始にあたり、「世界宗教World Religions」ということばをめぐる学術的な議論について、補足しておかなければなりません。
 「世界宗教」というとき、私たちはまず、世界中にメンバーがいる大宗教をイメージするでしょう。従来、人文系の諸学問では、「世界宗教」とは、(民族宗教などと対比して)“民族や文化の境界を越えて普遍的に広がっている”ような宗教を指していました。定義上は、大小は関係ないことになります。「世界宗教」の方が立派という意味もほんとうはないはずです。けれども、やはり「世界宗教」というといかにも立派に聞こえます。「世界」という言葉は、世界レベルに至っている、というイメージを醸し出します。
 現実の宗教は、諸民族によって諸文化と混じり合いながらさまざまなバリエーションを展開します。けれどもそのことを見ずに、民族や文化の差を越えて普遍的な教えを展開する宗教を思い描いてしまったところに、近年の人文諸学、特に宗教学は、視点の偏りを見出します。植民地の(民族)宗教を何となく上からの視線で見てしまう(そして自分たちのキリスト教は世界宗教だと考える)宗主国の人々の世界観をひろいだし、それは適切な宗教理解ではなかった、と批判するのです。

 いささか小難しい話になりましたが、「世界宗教」という言葉を避け、わざわざ「世界の諸宗教」という言葉を使っているのは、こんな議論もあるのだとお耳にとめておいていただければ幸いです。


大峯山で行われる柴燈護摩に先立ち、
魔を払う儀式。

 「世界の諸宗教と出会う」では、俗に三大宗教といわれる、イスラーム、キリスト教、仏教のほか、世界の諸宗教に少なからぬ影響を及ぼしている「小さめの」(実は大きい)宗教についても考えていただく計画があります。文字通り、「世界の諸宗教Religions in the World」に、出会っていきましょう。
 

〈わたしたちを豊かにする出会いへ〉

 連載の意図するところは、聞き手・読み手の方々に、世界の諸宗教と、出会っていただくことです。さきに「世界の諸宗教が、どのようにメッセージを伝え、どのように他宗教と出会ってきたか」と申し上げました。けれども、世界の諸宗教のおおざっぱな比較――何を崇拝対象としているか、どのような儀礼があるか、どのような地域にどれだけのメンバーがいるか、等々――という、一枚の表にまとまるような「早い話」は、めざすところではありません。
 そもそも、現代の日本人の文化にとって、宗教とは、すっきりとおさまるものではない。
 共感を覚えたり、反発を覚えたり、びっくりして言葉にならなかったりする、その感じを大切にしていきましょう。違いを簡単に整理して、言葉で上手に説明できてしまうと、私たちを豊かにしてくれるエッセンスを見逃してしまいます。


富士浅間神社のご神木
 
 
 それでは、次回以降をお楽しみに。
 


 

葛西賢太

宗教情報センター研究員。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。学術振興会特別研究員、上越教育大学学校教育学部助手を経て、現職。著書に、『現代瞑想論――変性意識がひらく世界』(春秋社、2010年)、『断酒がつくり出す共同性――アルコール依存からの回復を信じる人々』(世界思想社、2007年)、『仏教心理学キーワード事典』(井上ウィマラ・加藤博己との共編、春秋社、2012年)、『宗教学キーワード』(島薗進他との共編、有斐閣、2006年)等。