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第21回 2012/12/22

第21回 いのちのリハビリテーション――遺骨収集と戦地慰霊への宗教者の関わり

菅政権の硫黄島収骨

 東日本大震災の前年、2010年(平成22)のことですが、菅直人首相(当時)の肝煎りで小笠原諸島硫黄島の戦死者遺骨収集を積極的にすすめると決定されたことをご記憶の方も多いでしょう。同年8月に「硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム」が設置され、12月には菅首相も現地を訪れ、遺骨に手を合わせている様子が報道されました。
 この事業の趣旨は、おおかた次のように説明されています。戦後66年が経過し、激戦地のひとつである硫黄島での日本側の戦死者2万2千人のうち、その遺骨が収容されているのは今日でも約4割にとどまる。遺骨帰還に政府一体となり集中的に取り組むことは、高齢化の進む遺族に心の安らぎをもたらし、後世代に戦争の悲惨さを伝えることで国民生活の安定・安全のために必要であり、 政府として最大限努力すべき「国の責務」である。
 短い滞在ではあれ、首相自ら現地におもむいて戦死者の遺骨に手を合わせる姿は、たしかに政府の積極的な姿勢を示すものとして一定の評価をすべきものかもしれません。ただし、硫黄島や沖縄といった国内も含め、アジア太平洋戦争の戦場となった諸地域において、60年以上も前に出征した将兵や現地の市民が、いまだ適切に埋葬されていないという事実を前に、「どうして今頃?」という疑問がどうしても起こってしまいます。そこで、時間をさかのぼって、これまではどうだったのかについて見てみることにしましょう。
 

戦後における遺骨収集・戦地慰霊のはじまりと宗教者

 こうした政府の対応の遅れは、実は今に始まった話ではなく、戦後直後からずっと続いてきたものです。私はこの数年、遺骨収集・戦地慰霊(慰霊巡拝)の戦後の展開のなかで、遺族や戦友ばかりでなく、政府や宗教者などの「第三者」がどのようにそれにかかわってきたのかについて、少しずつ調査を進めてきました。その一環として、超宗派的新聞である『中外日報』の関連記事を、1950年代から70年代までの約30年分集めて、目を通してみました。その結果わかってきたことは、つねに市民あるいは民間の気運に促されるかたちで、政府の遺骨収集事業がおこなわれてきたということです。その際、宗教者の役割というのが大きな場所を占めてきたということも徐々にわかってきました。
 そもそも、政府が遺骨収集に取り組むようになったのには、意外なきっかけがありました。「東京ブギウギ」(1947年)の大ヒットで知られる歌手の笠置シズ子と作曲家の服部良一が、1950年(昭和25)6月にハワイに向かう途中、乗っていた旅客機がウェーク島に不時着し、その島に散乱していた日本人戦死者の遺骨を目の当たりにします。その事実を、雑誌記事で国民に知らせ、何とか日本政府に処置してほしいと主張したことを契機に、遺族や一般の国民から遺骨を日本に迎えたいという声があがります。
 翌年の国会でこれが取りあげられ、1952年1月から4月には米国政府の承認をえて、硫黄島と沖縄で遺骨収集実施のための予備調査がおこなわれました。この時、硫黄島に派遣された遺骨調査団は、2名の政府職員と寿松庵恒阿弥というひとりの仏教者でした。この予備調査の報告書では、派遣の実現と現地での供養調査への真摯な努力、職員への適切な指導、在島米軍との密接な折衝など、この僧侶の貢献が高く評価されています。
 この寿松庵恒阿弥という人物は、米軍による硫黄島攻略が行われる3か月前まで海軍警備隊司令として現地で指揮をとっていた和智恒蔵のことです。彼は復員したその足で京都の空也堂(極楽院光勝寺)で出家し、硫黄島での供養のために戦後数年間ずっとGHQに対して渡島交渉をおこなっています。それがようやく、この予備調査によって実現したわけです。彼はこの渡航の翌年、硫黄島協会を設立し、その後も硫黄島における収骨や慰霊において中心的役割を果たしました。
 彼の渡航には個人的な強い思い入れがあったわけですが、この予備調査の際にはそれに止まらず、比叡山、高野山、四天王寺などから特使として任命され、出雲大社や靖国神社、YMCAからも支持を受けたものでした。つまり、日本の宗教界を代表した渡航でもあったわけです。帰国後も、日光輪王寺での大慰霊法要をはじめ、空也堂、延暦寺、四天王寺、東西両本願寺、高野山などに遺骨を持参して、法要や報告講演をおこなっていることから、そうした意味あいを読み取ることが可能でしょう。
 他方で沖縄について見てみると、政府の予備調査派遣とは別に、1952年から53年にかけて高野山金剛峰寺、四天王寺、真宗大谷派、真言宗醍醐派などが、沖縄戦跡慰霊参拝団や慰霊特使などを派遣しています。沖縄でのこうした仏教諸宗派の組織的活動は、収骨や現地での慰霊法要にとどまらず、米国軍政下における積極的なキリスト教の布教活動の一方で、戦災によって荒廃し、仏像や仏具の入手もままならない現地の仏教寺院を復興するという目的も併せもっていたようです。
 

政府の第1次収骨計画と海外戦没者慰霊委員会

 1952年初頭の硫黄島と沖縄での予備調査を受け、同年6月には「海外地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び送還等に関する決議」が衆議院で可決され、さらに10月には「米国管理地域における戦没者の遺骨の送還、慰霊に関する件」が閣議決定されて、翌年から3回にわたる遺骨収集事業(第1次:1953~58年、第2次:67~72年、第3次:73~75年)が断続的に実行に移されます。また1959年には、身元不明や引き取り手のない遺骨を収容するために千鳥ヶ淵戦没者墓苑が建設されています。
 第1次計画に際して、収骨地域で多数の死者を出した都道府県から遺族代表4~6名が選出され、政府職員が6~10名、それに日本宗教連盟(以下、日宗連)から推薦をうけた宗教者も2、3名同行したと厚生省(現厚生労働省)の記録にはあります。しかし、この宗教者たちについて、だれが選ばれ、現地でどのような活動をおこなったのかといったことについては、そこではほとんど触れられていません。しかし 、『中外日報』の記事によれば、第1次計画案作成を受けて、政府の計画が事務的な処理にとどまることを懸念し、慰霊や遺骨送還に「万(よろず)遺憾のないようにする」ために、日宗連と日本赤十字社によって「海外戦没者慰霊委員会(以下、慰霊委)」が設立されたことがわかります。  
 例えば、当初、政府案では収骨の実施だけが目的となっていましたが、慰霊委では現地における慰霊・墓標建立・送還後の慰霊などの実施を訴え、実現させています。また、日宗連の協賛者である5つの宗教連合組織(教派神道連合会・全日本仏教会・日本キリスト教連合会・神社本庁・新日本宗教団体連合会)から宗教代表や予備員候補を選出しています。53年1月に実施されたグアム・サイパンなど南方八島での収骨に際して、宗教代表は現地滞在中「イの一番にジャングルや洞窟にも入って遺骨の収集もやる、火葬もやる、それに慰霊行中は好きな酒も一滴も口にしない精進振り」などと評され、他の団員から尊敬を受けるような活躍ぶりが報じられています。
 また、ラジオ・新聞等を通じて遺族から戒名や写真等の依託を呼びかけ、現地の適当な地にこれらを埋めて「敬弔戦没者の霊」の標木を建てました。第1次計画の際には、現地では各島への滞在日数が1~2日と制限されていたため形式的な遺骨発掘にとどまりますが、宗教代表による宗教的行事が執行され、各島に自然石でできた記念碑と敬弔碑の建立が許可されています。また海戦があった場所では、船中で慰霊行事をおこない、船中には引揚遺骨のための安置所が設けられました。
 

第2次計画と『中外日報』主催の慰霊団の効果

 1970年前後に実施された第2次計画は、国内の高度経済成長と、旧戦場地域の開発がすすんだ時期に当たり、民間での自発的な遺骨収集、戦地慰霊が高まってきたことを背景として、新たに計画されたものでした。政府としては第1次計画の完了をもって終了であるという認識であったようですが、ここでも民間側からの後押しがあったわけです。
 この時の計画では、発見した遺骨すべてを収集する方針で、渡航には船ではなく航空機を使用し、現地での収集作業に時間がかけられています。しかし、収集団の編成を見てみると、政府職員を中心に組織され、遺族や宗教者の同行はなくなっており、作業要員は現地で雇用されています。つまり、民間レベルでの収骨や現地慰霊の動きを踏まえて、効率的な収骨に特化したわけです。その結果、第1次計画の7倍以上の遺骨が収容されました。   
 しかし、別の側面から見れば、慰霊委設立の際に日宗連が懸念した「政府の計画が事務的な処理にとどまること」ともつながる事態として見ることもできます。もちろん、憲法の政教分離原則の問題とも絡む話ですので、ここは慎重に検討する必要はありますが、とにかく、慰霊委の「万(よろず)遺憾のないようにする」という方針は、この時点で完全に民間の側に委ねられたといってよいでしょう。
 では、民間側にはどのような動きがあったのでしょうか?  1952年の沖縄慰霊渡航以降、宗教・宗派を単位として各旧戦地での遺骨収集・戦地慰霊が断続的におこなわれていました。そうした流れのなかで、1965年には中外日報社が企画・主催し、日本宗教連盟と日本遺族会の後援による「サイパン・グアム・比島方面戦没者慰霊団」が組織されます。実際の参加者は、神道と仏教の宗教者に遺族やジャーナリストを含めた総勢11名という規模でしたが、「とりわけ政府の遺骨収集計画から漏れた同地方に、日本宗教界のなかでもことに縁の深かった神道・仏教の関係者が自主的に参画することは誠に意義深い」と、記事のなかでもその重要性が強調されています。
 実際の渡航そのものの意義もさることながら、ここでは同慰霊団がその後の各方面に及ぼした効果に注目したいと思います。同慰霊団の帰国後から数か月後、グアムのカトリック神父オスカー・カルボ氏が来日し、先に触れた慰霊委に対して、南太平洋地域で亡くなった40万の日本軍将兵、民間人のための慰霊公苑と慰霊塔の建立をおこなうよう呼びかけました。カトリックと全日本仏教会をはじめ国会議員やグアムの政財界関係者などが中心となって南太平洋戦没者慰霊協会が設立され、紆余曲折を経て1970年に完成しています。
サイパンにおける遺骨収集の様子
(故金谷安夫氏提供)
 
政府事業については、第3次計画として1973年から75年までの3ヵ年で、予算規模を大幅に拡大して、民間の活動を組織的に取り込む形で展開していますが、これをもって政府の遺骨収集は「概了」となります。それ以降も未概了地域で補完的な遺骨収集は継続され、概了した地域でも確実に遺骨が存在するという情報が入れば、それへの対応はなされましたが、政府による援護のベクトルは、遺骨の収集を目的としたものから遺族主体の戦跡戦地訪問へとシフトしていきます。
 

いのちのリハビリテーション

 およそ60年の遺骨収集・戦地慰霊の戦後史を駆け足で見てきました。すでに述べたように、ここで取りあげたいくつかの事例における宗教者の取り組みは、政府の消極的で散発的な遺骨収集の取り組みに比べると、国家の戦争に動員され、あるいは生活空間が戦地となって巻き込まれた人々に対して、明らかに異なる積極的な姿勢が見られます。
 現代に生きる私たちの大部分は、当事者として戦争を知らない世代であり、戦争の犠牲者の問題を「わがこと」として考える想像力を持てなくなっています。2万人以上の死者を出した東日本大震災の犠牲者でさえ、戦後社会の日本の常識からすれば「想定外」「桁外れ」の出来事でした。硫黄島での日本兵の死者数はそれとほぼ同数であり、アジア太平洋戦争の全域に視野を広げると日本側だけでおよそ百倍、またそれぞれの国や地域の現地住民の民間人犠牲者や連合国軍の戦死者を含めると、実におよそ千倍の死者を十数年のうちに出したことになります。
 こうした事実を「戦後社会の常識」しか持ちえていない私たちは、どのように受け止めればよいのでしょうか。とは言え、ここで大切なことは、人数の多寡を論じるような量の問題ではありません。そうした視点は、人々を駒としてカウントしがちな行政の冷たい「上から目線」に容易にシフトしてしまいます。
 
 それに対して、ここで取りあげた宗教者たちの姿勢は、戦地に棄てておかれた一人一人の兵士の遺骨やたましいを、ふさわしい場所に戻す営みであったと言えそうです。その姿勢は、一人一人の「いのち」を大切にしようとする態度であるとも言い換えることができるでしょう。ちなみに、「再びふさわしい場所(状態)に戻す」ことは、リハビリテーションという語がそもそも持っていた意味ですが、そうだとすると、遺骨収集や慰霊の想像力とは、亡くなった死者たちをきちんと遇することであると同時に、それを通して私たち自身のいのちの大切さを改めて理解するリハビリの場でもあるということが言えるのではないかと思います。

グアム島ジーゴ村にある
南太平洋戦没者慰霊公苑の風景
 

+ Profile +

西村明先生

 博士論文を書いて原爆の慰霊についての研究を一段落させた頃、国立歴史民俗博物館の研究プロジェクトの一環で、いわゆる戦争未亡人に聞き書き調査をする機会がありました。私は故郷にいた幼なじみのお祖母さんに話をうかがうことにしました。
 調査項目にあった出征や戦死者の葬儀についての詳細を尋ねたところ、そのお祖母さんが何度も懸命に話をしてくれたことは、夫が戦死した後に幼い娘に父親の死をどう説明して納得させたかということや、夫の戦死したインドネシアのバリクバパンへ県の遺族会代表として行くことができて、それがどんなに幸運なことであったかといった内容でした。
 残念ながら、当初の質問項目にはそうした子供のことや戦地慰霊については触れてありませんでしたので、そのお祖母さんの話は全くこちら側の意図しないものだったわけですが、むしろこの時のお話が私の今の研究関心を切り開いてくれました。調べてみると遺骨収集についての先行研究は意外なほど少なく、慰霊などについてある程度わかったつもりでいた私たち研究者の視点が、当事者である遺族や戦友の実際の戦後の動きからいかにずれたところに置かれてきたかを反省させられる出来事でもあったわけです。私たちがこうした調査をする際に、どうしても自分たちの学問的関心に沿った質問を投げかけたり、それに沿った「情報」を得ようとしてしまいがちですが、当事者に耳を傾け、生きた現実から学ぼうとする姿勢を忘れてはいけないと、このエピソードを思い出すたびに自戒しています。
 
鹿児島大学法文学部准教授。1973年、長崎県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。著書に、『戦後日本と戦争死者慰霊―シズメとフルイのダイナミズム』(有志舎、2006年)、遺骨収集に関する論文に、「遺骨収集・戦地訪問と戦死者遺族―死者と生者の時-空間的隔たりに注目して―」『昭和のくらし研究』第6号(昭和館、2008年)、「遺骨収集・戦没地慰霊と仏教者たち―昭和27、8年の『中外日報』から―」京都仏教会監修『国家と宗教―宗教から見る近現代日本―』下巻(法蔵館、2008年)、「遺骨への想い、戦地への想い―戦死者と生存者たちの戦後―」『国立歴史民俗博物館研究報告』第147集(2008年12月)、“Battlefield Pilgrimage and Performative Memory: Contained Souls of Soldiers in Sites, Ashes, and Buddha Statues,” Memory Connection Journal, 1/1, 2011.12.