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寄稿コラム


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第6回 2011/01/24

フランスのライシテ――複眼的思考の試金石


はじめに
 フランス共和国憲法の第1条には、こう書かれています。「フランスは、不可分で、ライックな、民主的そして社会的な共和国である」。「ライック」というのが、ちょっとわかりにくいかもしれません。ロワイヤル仏和中辞典で引いてみましょう。形容詞として、「聖職者でない、一般信徒の、(教育などが)宗教から独立した、非宗教的な、世俗の」といった訳語が並んでいます。
 「ライシテ」は、「ライック」の名詞形です。同じ辞典には、「非宗教性、世俗性、政教分離(思想)、(教育などの)宗教からの独立、宗教的中立性」とあります。ここまで来ると、ああそうかと思う人が増えてくるのではないでしょうか。「フランス独特の政教分離原則」のことだな、と。「そういえば、フランスの政教分離は他の国よりもずいぶん厳しいと聞いたことがあるぞ。たしか数年前、学校でイスラームの女性がスカーフやヴェールを被ることが法律で禁止されたはずだ。最近では、規制の対象が公共空間一般に及び、ニカブやブルカと呼ばれる全身をすっぽり覆う衣服の着用が禁止されるという話だ」。
 もちろんこれは、ひどい間違いというわけではありません。しかし、これでわかったつもりになると、ライシテとは、フランスにおけるマイノリティ宗教であるイスラームにずいぶん厳しいんだなあ、とか、やっぱりライシテとムスリムの共生は難しいのかなあ、といった感慨を抱いてしまうのではないでしょうか。たしかに、ライシテにそういう側面があることは否めません。しかし、それがライシテのすべてではありません。

ライシテの「二重の要求」
 たしかにライシテは、政教分離のニュアンスを含んでいます。政教分離がライシテの支柱である、とさえ言えるかもしれません。でもそれは、宗教を排斥するものではなく、むしろ宗教的自由を保障するためのものなのです。ですから、スカーフの着用を主張するムスリム女性の大部分は、ライシテそのものに反対しているわけではなく、ライシテに依拠して自分たちの権利の正当性を訴えているわけです。

 

     
     この写真には、スカーフを被ることと、フランス共和国原理(としてのライシテ)をともに守ろうとする姿勢がよく出ています。
*タイトル:islam-drapeautricolore。
2009年6月29日、Islamicus氏撮影。
URL:http://www.flickr.com/photos/39957829@N02/3673584154/
 2003年にシラク大統領(当時)が招聘した「スタジ委員会」という有識者会議がありますが、その報告書は、ライシテ原理は「国家の中立性」と「良心の自由の保護」の二重の要求に応じようとするものだと述べています。ところで、この二重の要求は「両立不可能ではないが、潜在的に矛盾をはらむ」ため、状況に応じて線引きの問題が生じてきます。
 公立校での宗教的標章の着用の問題は、まさにこの線引きの問題だったわけです。このときの「解決」のポイントになったのは、「ヴェールの強制に苦しんでいるムスリム子女がいる」という論点のクローズ・アップでした。彼女たちが未成年ということ、公教育という場が焦点になったことも重要です。公教育を通じて彼女たちを「解放」することが、「国家の中立性」にも「良心の自由の保護」にも適うという論理になったのです。自分の意志で被りたいというムスリム子女の「良心の自由の保護」が後景に退いた感は否めませんが、とにもかくにも二重の要求を満たす論理を手にしたことが、線引きを正当化したのです。
 ここで付け加えておきたいのは、スタジ委員会はたしかにヴェール禁止を提言していますが、同時にさまざまなオープンな提言も行なっていたことです。ところが、2004年の法律に盛り込まれたのは、宗教的標章の禁止という厳格な面のみでした。
 公共空間におけるブルカやニカブを禁止する法律は、一見この「厳格なライシテ」の拡大路線であるように見えます。しかし、国務院(コンセイユ・デタ)(*1)は2010年3月、そのような法律は「個人の自由を定める憲法に違反するおそれがある」との見解を示しました。これは、もはやライシテの論理では法律制定できないということです。そこで、公的秩序や治安という概念が持ちだされてきました。
 何が言いたいかというと、公立校のスカーフ禁止は、まがりなりにもライシテの論理に適っているが、公共空間におけるブルカ禁止は、もはやライシテの論理を逸脱しているということです。しかし、人びとの語りにおいては、ブルカ禁止もしばしば「フランスはライシテの国だから」ということで了解されてしまっています。
 繰り返しになりますが、ライシテは「国家の中立性」と「良心の自由の保護」の二重の要求に応えようとしています。たしかに、一方が過度に強調され、暴走しかけることもあるわけですが、ただし、そのようなときには、それを食い止めようとする仕掛けも、ライシテに内蔵されているわけです。この点が、ともすると見過ごされやすいように思います。
 誤解を受けないように付け加えておきますが、私は、だからといってライシテというシステムを手放しで称賛しているわけではありません。2004年の法律にしても、これはどちらかと言えば「悪法」だったのではないかと思っています。自分の意志でスカーフを被りたいというムスリム子女の「宗教的自由」が、やはりないがしろにされていると思われるからです。
 *1:政府が準備する法令案などを諮問する機関。行政裁判における最上級裁判所でもある。

 

フランス史のなかで
 そのような観点から、一外国人研究者として感じるのは、フランスでは、この「宗教的自由」が、「宗教〈に基づく〉自由」というより、「宗教〈からの〉自由」と観念されやすいことです。「感じる」と言いましたが、ここにはれっきとした歴史的理由があります。
 16世紀の宗教改革とそれに続く宗教戦争は、ヨーロッパをプロテスタント国とカトリック国に色分けしました。アメリカに渡ったピューリタンもいました。「宗教〈に基づく〉自由」の発想は、プロテスタント的なのですね。フランスでは、アンリ4世がナントの勅令(*2)を出しましたが、ルイ14世はそれを廃止しました。信仰の単一性によって特徴づけられる国という状態で、1789年の革命を迎えたわけです。そういうわけで、フランス共和国にとっての宗教的自由は、「宗教〈からの〉自由」のニュアンスが強いのです。
 フランス革命の「自由・平等・博愛」の理念に対応させて言えば、ライシテとは、宗教的な隷属から個人を解放し(自由)、国家が諸宗教に対する中立性を守り(平等)、政治参加を通じた市民の連帯と社会統合を実現する(博愛)ことを目指すもの、と言えるかもしれません。「人間は政治参加を通して市民になる」という発想も、フランスのライシテを理解するうえで重要です。
 このように、フランス革命はライシテの歴史にとって特権的な起点をなしています。ただ、「ライシテ」という言葉自体の初出は、実はそれから100年近く経った1870年代なのです。新語が登場するとき、その言葉の実質的内容はすでに存在しているとも、新語は自らのルーツを〈作る〉ことで生まれるとも言えるでしょう。



   いずれにせよ、このことは、革命で一気に社会構造や世界観がカトリックからライシテに切り替わったわけではないことを示しています。ライシテにつながる考え方も、最初から宗教に対して外在的だったわけではなく、むしろ新たな宗教を求める宗教批判の内側から生まれています。また、ライシテは、政教関係を規定する法制度という枠にとどまるものではありません。それは、カトリックに代わる新たな包括的な価値体系の担い手でもあったのです。この点は、拙著『ライシテ、道徳、宗教学――もうひとつの19世紀フランス宗教史』(勁草書房、2010年11月刊)で詳しく論じていますので、興味のある方はご覧ください。  

 *2:1598年、フランス王アンリ4世が発布した勅令。プロテスタントに対する寛容を認める内容で、フランスにおける宗教戦争を終結させる役割を果たした。1685年、ルイ14世のフォンテーヌブローの勅令により廃止。

 

課題の変化
 共和派とカトリックの抗争は、1905年の政教分離法制定以降も続きますが、和解の枠組みは同法に規定されていました。当時のライシテの課題は、社会的重みを持った制度としてのカトリックを、私的なもの=民間のもの(プライヴェートなもの)と規定し直し、それに自由を与えることでした。現在のライシテの課題は、むしろ宗教の持つ公共的な役割をどのように認めていくかという形で定式化されています。
 このように、ライシテの課題が変化しているわけですが、ライシテの内実そのものも変化しています。かつてのライシテは、宗教を脱魔術化することで自らを魔術化し、それで包括的な価値体系としての信憑性を有していたわけですが、現在はその信憑性が磨り減ってしまい、ライシテ自体の脱魔術化が進んでいます。
 ある意味で、イスラームを前に硬直化してしまう教条的ライシテ主義は、かつてカトリックを敵に回すことでライシテが推進力を得ていた記憶を別の地平で反復しているのだ、とも言えるでしょう。
 しかし、他方では、ライシテ自体の脱魔術化にともない、世俗的な価値観も宗教的な価値観も横並びになるという事態が生まれています。すると何が起こるかというと、これまでもっぱら宗教との関係において規定されてきたライシテが、必ずしも宗教との関係性を必要としなくなってくるわけです。要するに、これまでのライシテは「宗教的自由」とか「諸宗教の平等」と言ってきたわけですが、そこから「宗教的」とか「諸宗教」という言葉を取っても構わないような状況も生まれてきていると思います。もちろん宗教を含むけれども、宗教にかぎらないわけです。そのようなものとして、ライシテが人権保障や差別撤廃の概念として再定位されつつあるようにも思います。

 

おわりに
 ここで話を最初に戻してみましょう。ライシテとは「フランス独特の厳格な政教分離原則」であるという理解が、間違ってはいないけれども、やや一面的であることが納得していただけるのではないでしょうか。
 ライシテは歴史のなかで変化してきたいわば「生き物」です。その見え方は、立場に応じても、大きく変わってきます。まことしやかな簡潔な定義を丸暗記して繰り返すことは、楽かもしれないけれど、その定義の前提となっている立場を実は無批判的に追認しているのかもしれません(と言ったら言いすぎでしょうか)。
 いずれにせよ、現代のような多元化した複雑な社会では、複眼的なものの見方ができるかどうかが、非常に重要になってくると思います。ライシテは、そのようなものの見方ができるか、その力量をはかるための格好の試金石と言えるかもしれません。
 実際、ライシテのさまざまな姿を発見していくことは、非常に意義のある企てです。それはまず、私たちはどのようにしてライシテの通俗的な理解を得ているのかという反省を、私たちに促すことになります。私たちは、共生を目指す日々の地道な努力よりも華々しい事件や葛藤のほうに焦点を当てがちなマスメディアの見方を、そのまま受け入れているのかもしれません。あるいは、歴史的に構築されてきた認識論的なギャップというものがあって、日本ではフランス的な思考回路を理解するのが必ずしも容易ではないのかもしれません。
 次に、だからこそ、ライシテの多様な側面を見出すことは、比較文明的な批評の実践たりえます。そして、フランスのライシテについて、さまざまな角度から理解を深めることができたのなら、ライシテは果たしてフランスの専売特許なのか、という問いを立てる地平も開けてくるかもしれません。というのも、「国家の中立性」と「良心の自由の保護」というライシテの二重の要求に対し、フランスはフランス的な解決をするかもしれませんが、この二重の要求に応じようとしている社会は少なくないはずだからです。

+ Profile +

伊達聖伸先生

 ライシテは「非宗教性」と訳されているけれども、案外「宗教的」なのではないか。この素朴な疑問は、19世紀後半の国民国家形成とライシテの関係を宗教学の観点から問う、という研究を続けているうちに、確信に変わっていきました。
 フランスには、2002年から2007年まで留学しました。研究対象は19世紀でしたが、スタジ委員会、「ヴェール禁止法」、2005年の政教分離100 周年など、ライシテのアクチュアリティを間近で経験したことは、とても大きかったと思います。もっとも、最初から語学の力が十分にあったわけではないので、「あのときの話はこういうことだったのか!」と合点するのは事後的だったりします。今でもそういう発見があります。
 私はもともと、そして今でも、「おフランスな人間」ではないと思っていますが、フランスの歴史やアクチュアリティを学ぶにつれ、フランス流の発想や解決方法が、日本語環境にどっぷり漬かっていると、なかなかわかりにくいということが見えてきました。そこに理解の通路を切り開くことは、一定の意義があるのではないか、とも思うようになってきました。仕事が板についてきたということだといいのですが。
 最近では、ケベックのライシテにも守備範囲を広げながら、ライシテの国際比較ということを考えています。複合的な意味を持った「ライシテ」という言葉が、日本語のなかでどのような処遇を受けるのか――カタカナ語としてある程度定着してくれるのか、受容的拒絶という運命をたどるのか、それともこの言葉にふさわしい日本語への置き換えがきちんとなされていくのか――興味があります。そして私自身、このプロセスに主体的にかかわっていきたいと思っています。

 1975年、仙台生まれ。東京大学文学部卒、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、同博士課程単位修得退学。リール第三大学博士課程修了、 Ph. D(パリ高等研究院との共同指導)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在、東北福祉大学総合福祉学部専任講師。
 著書に、『ラ イシテ、道徳、宗教学――もうひとつの19世紀フランス宗教史』(勁草書房、2010年)、訳書に、ジャン・ボベロ『フランスにおける脱宗教性(ライシ テ)の歴史』(共訳、白水社、2009年)、マルセル・ゴーシェ『民主主義と宗教』(共訳、トランスビュー、2010年)、ルネ・レモン『政教分離を問い なおす』(共訳、青土社、2010年)。