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2015/05/26


『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』 岡本亮輔 著  中央公論新社
 

 
2015年 2月 780円 +税

 パワースポット・ブームで、伊勢神宮、京都の清水寺、四国巡礼の諸寺、そして富士山や東京の高尾山など、多くの神社仏閣や霊峰に観光客が押し寄せる。ニュースや雑誌で目にするのは、霊験あらたかな場にカジュアルな服装で立つ老若男女の写真。それらを目にしつつ、「本来の」聖地の意味と観光客の思いとのズレを問題にすることが、聖地巡礼についての言説の主要なパターンだった。

 しかし事情はそう簡単ではない、と本書。訪問者の増加によって聖地のありかたが変化し、信仰者と訪問者とが互いに影響を与えあう状況もみられるからだ。

  宗教が従来その場所について語ってきた物語を信じていなくても、自分なりに新たな物語を読み込むこと
 がある。宗教の私事化によって、聖地のあり方は大きく変わりつつある。
(p.58)

 現代の聖地巡礼の意味を考察する本書の基本視点と主張は、この記述に集約されている。近頃では、「聖なるものが観光のコンテンツとして取り込まれたり、宗教が観光の制度やシステムを利用して新たな形に生まれ変わっている」(p.23)という。2013年にイタリアで聖骸布が公開され、その高精細画像を鑑賞できるスマートフォンやタブレット用のアプリがリリースされる(p.41)という事情も、その一例だ。

 宗教と観光のこうした乗り入れ関係を捉える際、本書が援用する基本的視座は、宗教の「世俗化」と「私事化」である。社会における宗教の力が衰退するプロセスが、世俗化である。「公的な場で超越的な存在や特定宗教の教典が当然のものと見なされることはない」(p.14)という状況の広がりが、いわゆる世俗化だ。この公的な価値観や文化を統べる宗教の衰退に伴い、社会における価値観や生活文化は多様化する。また、この世俗化によって「私事化」という事態が引き起こされる。

 「私事化」は、世俗化した社会で人間が宗教とどのように関わるのかを示す概念である。まず、宗教がプライベートな領域のこととして扱われる。続いて、元々の文脈からは切り離された宗教の諸コンテンツが、自分流にアレンジされ、私的な信仰が増える。スピリチュアルやスピリチュアリティの興隆も、この私的な信仰の広がりとして捉えることができる。このように、私的な信仰のダイナミクスを現代の聖地巡礼やパワースポットブームに探っているところが、本書の魅力といえる。

 第1章、第2章は、聖骸骨や聖母出現という人々を魅了するものを「聖地のアトラクション」と位置づけ、信仰なき訪問者もそれらのアトラクションに自分なりの価値を見出すがゆえに訪問、巡礼するのだと論じている。また巡礼のあり方も、ゴール重視からプロセス重視へと変化してきたという。世界的に有名なスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼において、信仰を持たない巡礼者にとり、聖遺物は旅の目標にはならない。そこで彼らは「徒歩巡礼という不便な方法をあえて選ぶ」という(p.74)。そこでは、道中で体験する体調不良や、巡礼仲間からの援助、お互いの交流などが重要となる。ゴールよりも道のり、つまり、プロセスを重視するのが、現代の巡礼というわけである。イエスの十二使徒のひとり、ヤコブの遺骸のある聖地という意味よりも、巡礼路(Caminoカミーノ)での体験そのものを重視する。

 ところで、星野英紀や門田岳志らの現代の巡礼研究を参照しながら、本書が注目しているのは、巡礼プロセスに含まれる他者との交流体験が「どこにでもある出来事」だという点である。また一方で、この「どこにでもある出来事」は、もう当たり前ではなくなったしまったという現状もある。

  世俗化と私事化は、人々の価値観や倫理観を細分化する。その結果、社会の大多数の人が共有する宗教的 物語や価値観を前提とすることが不可能になる。こうした状況では、他者が無条件に自分に共感してくれた り、助けてくれたりすることを期待できない。地域や集団への安定した帰属感や共同体意識を持つことが相 対的に難しくなっている。だからこそ、巡礼路でのつながりや交流の体験があらためて輝きを帯び
 る。
(pp.88-89)

 この記述の最後の一文の中の「あらためて輝きを帯びる」という部分が、巡礼と観光が結びつくなかで生成する(巡礼者にとっての)意味である。それゆえ、「宗教についての知識や深い信仰がなくとも、巡礼に満足できるようになってきているのである」(pp.89-90)。

 第3章、第4章、第5章では、ユネスコが制度化した世界文化遺産の認定登録によって伝統的な宗教文化が受ける影響を検討し、また地域に伝わる偽書をもとに新たに観光資源化した青森県・新郷村の「キリスト祭」の事例を紹介し、また、宗教の私事化の観点からパワースポット・ブームを考察している。

 例えば、2013年に世界文化遺産に登録され、登山客の増加でにぎわう富士山。山岳信仰の場であり、江戸時代には富士講の流行によって登山・参拝者を集めた。現在は、観光ブームの中で富士登山が人気を集めているのが実情だ。行政による文化遺産登録の申請にあたっては、「信仰の山」としての側面、つまり「何らかの宗教的意味を含んだものとして富士山をプレゼンする戦略がとられた」(p.100)。しかしあくまでも、知識や物として確認できる聖地の歴史や由来をテコとして富士登山の興隆を意味づけしており、こうした「物を中心とする世界文化遺産の観点からは、現代の登山者たちが語る宗教性は見過ごされてしまう」(p.102)という。
 
 そのほか、熊野古道(和歌山)、斎場御嶽(沖縄)、四国遍路、長崎の教会群(長崎)、フランスのモン・サン・ミシェルにおいて、信仰なき巡礼者(=観光客)らが、各地の伝統的な文化価値を「特別な何か」として改めて発見しているという事例が紹介されている。特に「徒歩を通じて得られる宗教的な体験や意識など、より現代的な宗教性に光があてられている」(p.112)という指摘は、現代における観光と宗教との相互影響関係を考える上で重要である。

 地域に伝わるキリスト渡来伝説をもとに、地域の民俗芸能と融合した「キリスト祭」が創られた青森・新郷村の事例も、村が聖地を創造する動きとして、非常に興味深い。2000年前後には、「キリストの里公園」や「キリストの里伝承館」なども地元の観光協会の後押しでオープン。また、キリスト祭をきっかけに、地元で伝承されてきた獅子舞や盆踊り唄が“復活”しているという。こうして、「伝統的には聖地とされてこなかった場所が聖地になることもある」(p.150)。これは、訪問者(ゲスト)と地元生活者(ホスト)との相互交流がもたらすものであり、こうした分析・考察は、あらゆる場所で広がっている「地域おこしと観光」の現場を捉えていく際のモデルとしても有効だろう。
 
 また、パワースポット・ブームの背景として、キリスト教文化圏に比べて聖地が成立しやすい日本の宗教文化の特徴があると指摘している(p.152)。その特徴とは、次の2つである。一つは、アニミズムの観念。もう一つは、「神仏や奇跡への信仰のあり方を一元的に管理する制度」の不在である(pp.152-154)。つまり、キリスト教文化圏と比べ、一般の生活者たちが新たに聖なるものを産み出すことに制度的規制がかからない点が、日本の宗教文化の特徴だというわけである。

 日本における「パワースポットの多くは、既成の寺社や霊山であり、昔から神仏が祀られてきた場所である」(p.158)。したがって、これを読み解くには、そこがどのように取り上げられているか(=編集と演出)を読み解くことが重要だという。パワースポットは、(1)再提示型、(2)強化型、(3)発見型という3つの類型に整理できるという(pp.158-165)。再提示型とは、かつての聖地がパワースポットと言い換えられるタイプ。強化型とは、聖地において以前とは異なる要素が強調されアピール力が強化されたタイプ。発見型は、特異な景観や自然環境など特に宗教的ではない場所が聖地として提示されるタイプ。これらの類型に加え、パワースポットと呼ばれる場所への訪問者が行なう祈りが多様だという指摘も重要だ。

  パワースポット現象とは、ある場所をめぐる新しいイメージや語りの発生であり、ある面から見れば、新 しい宗教的な権威の登場にほかならない。(p.173)

 この主張は、パワースポットがもつ動態的なありかた(生成—変化の繰り返し)をひと言で述べたものである。多くの場所が聖地になる可能性がある。それは、そこが聖地であるという必然性と歴史性に縛られないが、「だからこそ、逆に、新しいつながりが生まれる可能性もある」(p.179)ということでもある。このあたりは、1990年代から議論されている、精神世界やスピリチュアルのもとに形成される新しいつながりや共同性といった問題と接続してくる点だ。

 最終章では、「つながりの宗教性」について、フランスの社会学者D・エルヴュ=レジェの理論を引きつつ、宗教の私事化の先を展望している。私事化の極点は、(聖地および聖なるものに対する)「自分自身による正当化」だが、これは聖地や聖なるものの持続やそれらの社会的共有をもたらさない。本書が最後部で示唆するのは、聖地をつくり出し、そこに集い、つながり合うことで、生まれてくる「宗教性」である。一例として、「東北お遍路プロジェクト」が挙げられている。このプロジェクトの目的は、東日本大震災の犠牲者の慰霊と鎮魂のための巡礼ポイントを公募で募り、震災の記憶を伝えていくことである。これは、「聖地巡礼という伝統的な宗教システムを利用して、記憶を伝達する試みとして興味深い」(p.213)といえる。

 ここに至り、聖地巡礼は、物語、記憶、共同性など、20世紀以降の人文社会科学で課題となってきた重要なテーマと絡んでくる。日本文化においては、場所の由来や縁起と呼ばれてきたものだ。なぜ由来や縁起、出会いで交わされるお互いの物語が、人間の共同性をつくる要となるのか。これは大きな問いだろう。
 
 世俗化と私事化が進むことで、これまでの普遍・不変・不動の宗教性は、個別・可変・流動の宗教性へと質を変えた。しかし人間は、コミュニケーション(人と人との交流、人と自然との交流、人と動物との交流など)する社会的動物だ。こうした観点からは、本書が注視してきた「巡礼者同士の交流」以外にも、人が「何か」と行なうコミュニケーションへのまなざしも、このテーマの考察には必要となってくる。
 
 第4章でとりあげられている青森県・新郷村の獅子舞や祭祀は、共同体の宗教文化である。しかしそれは何よりもまず、カミへ向けての表現(コミュニケーション)としてあるものだ。また、終章で紹介されている「東北お遍路プロジェクト」、そのなかで発せられる祈りの声は、生者が死者の記憶をつなぐことよりもまず、死者とのコミュニケーションの発露としてこそ、意味をもつのではなかろうか。その意味では、本書の現代聖地巡礼論は、「コミュニケーション・プロセスとしての巡礼」という大きなテーマも内包しているといえよう。

                            (宗教情報センター研究員 佐藤壮広)