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CIRの活動

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活動報告

2017/09/12

第10回日本スピリチュアルケア学会に参加して

 2017年9月9日-10日、京都文教大学の美しいキャンパスにて、日本スピリチュアルケア学会が行われました。この学会は、医療、看護、福祉、宗教などの諸領域にまたがり、病院や諸施設での傾聴をする人を育成し認定する機能を担う場としてつくられたもので、今年で10回目を迎えます。私は、この傾聴者の文化が、上記のようなヒューマンケア専門領域だけでなく、市井の一般の人々にも共有されるべきであるという強い信念を持って、上智大学グリーフケア研究所の人材養成講座のプログラムに関わってきました。そのため、学会の内容をかいつまんで紹介したいと思います。
 学会の初期から関わられ、また世間的にも尊敬されている方々が今回も学会の中心的な役割を担われました。その中には、この7月に他界された聖路加病院の日野原重明先生や、淀川キリスト教病院におられた柏木哲夫先生、上智の高木慶子シスターや島薗進先生などがおられますが、これらの先生方の動向はSNSなどでお読みいただけますので、これらの先生方の発言内容も少し拾いつつ、学会としてのあり方をかいつまんで紹介させて頂ければと思いました。
 なお、蓮池とみどりの芝生と白亜の校舎が並ぶ同大学の美しいキャンパスは、なかなか「瞑想的な」環境であったことを申し添えます。
 

第1日

 学会は、日野原重明先生を偲ぶ音楽と写真と追悼の言葉とのセッションから始まりました。
 つづいて、京都文教大学の学長であり高名な仏教学者でもある平岡聡先生と、ブータンからのゲスト話者であるKarma Phuntsho師が講演をされました。この企画は、座長をされた京大の西平直先生の企画によるもので、プンツォ師を招かれる手はずを整えたのも西平先生だとお聴きしています。
 平岡先生の基調講演は(仏教についてそれほど詳しくない会員を想定しての)、苦の認識と苦への対応に焦点を当てた仏教紹介と、大乗仏教におけるケア者としての「菩薩」概念をわかりやすくお話しするものでした。
 プンツォ師の講演は、師ご自身が生まれ育ったブータンという国の伝統を美しいスライドで紹介しつつ、この伝統の基盤を突き崩す近代化の波について、仏教徒としてどのような関わりをしていくか、とまとめられると思います。生きとし生けるものが相互につながりあい影響を及ぼし合っている(縁起)という自覚にたち、他者を世話するのがあたりまえの文化のなかに閉じていられたブータンが、自己愛的な近代文化の波にほんろうされていく現状を語られ、ご自身がひとつの文化財団を運営しながら、伝統文化を現代にふさわしい形で啓発していくビジョンと実践を語られました。ブータンはチベット仏教(密教)が熱心に実践されている国ですが、万物がつながりあっていることを説明した「存在の輪」の絵解きをされたり、人口に膾炙しているシャーンティデーヴァの「自らの苦しみと同じように他の苦しみをのぞきたい。わたし自身と同様に、意識を持つ存在(「有情の衆生」)の利益をもたらすように生きたい」(『入菩薩道論』7:95。拙「超訳」です)などの詩(偈文)を引用したりなど、内容豊かな英語での講演をされました。プログラムを見たときには「ケア学会にブータンからのゲストがどのようなお話をされるのか?」と思ったのですが、直球でした。
 お二人に対して京大のカール・ベッカー先生がコメントするシンポジウムが続きました。「時差ぼけです」と弁明されながらも、ベッカー先生は舌鋒鋭いコメントを二人に送られました。わたしなりにまとめると、現在の日本を含めた近代教育や近代的な死生観の継承に対するベッカー先生のつよい危機感がベースにあり、仏教的世界観が現代社会にどう貢献しうるか、ケア者が陥りやすい共感疲労の問題にどう対処するか、自己愛的な近代文化にどう対処するか、といった話題であったと思います。仏教の現代的な応用問題であったので、平岡先生にはいささかアウェイな話題であったのではと思いましたが、真摯に向き合われ、たとえば維摩経の「衆生(あらゆる存在)が病む故に我もまた病む」を紹介されるなど、仏教が他者のケアにどのような関わりを持ってきたかということを説明されました。
 仏教における「苦」dhukhaとは、しばしば誤解されるのですが、死のような大きな苦痛だけでなく、人生の中で常にであう不快感や不満足感という、ミクロなささくれ感などに焦点を当てたものです。このことを平岡先生もベッカー先生も言及されましたが、「ケア」ということを真摯に考えるものにとってじっくり深めるべき主題と思います。
 共感疲労については、プンツォ師は十一面観音についてのエピソード(これは誤解を招くので、あの場に立ち会われていない方にここで紹介することは避けますが)や、幸福や苦に対して強迫観念を持ちがちな現代文明と、それらに対して距離を置く仏教的な態度(「智慧」)を紹介しました。
 三人のやりとりを聞いた私の印象では、ここでの共通の話題のひとつは、(宗教的な世界観や価値観をも含んだ)教育の重要性であり、それを人生の早い段階から選択できるようにする方便的な工夫skillful meansの大切さであると思いました。よくある終活本には「死生観を死ぬ前に確立する」ということが勧められているのですが、臨終の場に牧師さんやお坊さんがきて、自分の価値観とは異なる宗教観を説かれることは暴力的になりかねません(この学会ではそのような振る舞いを堅くいましめています)。ではどのようにして死生観についてのリテラシーを高める実践を行っていくか、そのような問題提起をされたシンポジウムで会ったと思いました。そしてもちろん、日本よりもブータンが優れているなどという単純な話ではなく、日本もブータンも巻きこまれている近代の中にあって伝えるべきものをどのように工夫して伝えていくかという「教育」の問題に帰ってくると思いました。
 少し細かい話ですが、シンポジウムのタイトルは「苦」と「慈悲」ではなく、仏教を話題にするのなら「智慧と慈悲」のほうがよかったのではないか、と思います。なんとなく西洋的な「苦に対するケア」というモデルを引きずってしまっている感じがしました。

 この学会は、傾聴の担い手に資格認定をすることを重要な使命としています。シンポジウム終了後、その資格認定式が行われました。傾聴の担い手として認定された資格、担い手を指導する資格、専門的な研究や研鑽を行う資格を新たに学会より認められた方々が、高木理事長より免状を受け取られました。
 

第2日

 2日目は、個人の研究発表と、西平先生の講演、そして高木・島薗・柏木の三氏による学会の経緯と将来を考えるシンポジウムでした。
 個人発表は少しハシゴしながら聞かせていただきました。自分が聞いたうちでとくに印象が強かったのは、安藤泰至氏の、生命倫理学と障害学との対立関係を取り上げたもの、そして中島義実氏の、心理学とエビデンス偏重がスピリチュアルケアに及ぼす悪影響を危惧したもの、でした。
 安藤氏は、障害学が障害を持つ当事者の思いを代弁する中で、生命倫理学に強い不信感を抱いてきたことをひもときます。生命倫理学は生を価値あるものとするためにはどうしたらよいかと考察することで、図らずもある種の生(障害を持つ生)を「価値のないもの」として排除するような使われ方をしかねない。けれどもそこにも「絵に描いた幸せではないが、幸せ」な生がありうること、そして人間の有限性が生に与える意義を再考すべき、というお話として、私はうかがいました。
 中島氏は、心理学が物理学や医学を科学性のモデルとしながら、エビデンスを偏重する文化が心理学界で支配的になり、それが個々の苦しみや個々の課題を見落とすことになってしまわないか、心理学の豊かさを自ら切り捨てることになってしまわないか、と問題提起されたと思います。
 お二人のいた部会で最後に議論を総括する時間をいただきましたので、私も、この部会での話題を結びつける論点として、スピリチュアルケアと「エビデンスに基づく医学/心理学/○○」の原点を見なおすことを提起しました。「エビデンスに基づく医療」を提起した人たち、たとえば重要な論者として精神科医のナシア・ガミーのような人物がいますが、これらの人たちが提起した「エビデンス」は、決して数値偏重的なだけのものではなく、「患者との対話的なやりとりの中でよりよいあり方を練り上げる」という柱ももっていました。このような「エビデンスに基づく医療」本来のあり方にかんがみれば、当ケア学会でも、「エビデンスに基づくスピリチュアルケア」について前向きに考える必要が確認できますし、また「エビデンスに基づく医療」から「ナラティブ(物語)に基づく医療」という単純な話ではないということが示唆されます。
 補足しますと、わたしも中島氏と同様に、心理学における科学性モデルの歴史に関心をもっておりまして(卒業論文のテーマの一つでした)、心理学界のエビデンス偏重文化に対する中島氏の指摘にもまったく同感です。いっぽう、そうした動きの反動として、スピリチュアルケア学会ではエビデンスに対する否定的な論者がまとまっておられることに対して、それは「エビデンスに基づく医療」の本来の趣旨が誤って受け取られているのではないか、という思いがありました。その意味で、「このスピリチュアルケア学会で『エビデンスに基づく』ことの意味を再吟味することの価値」を提起した次第です。
 午後の西平先生の講演は、ケアの場で「無心になること」とはどういうことか、を真摯に掘り下げるというものでした。「無心になる」準備とは、武道や芸道の「けいこ」に通じるものであるという持論をここでも説かれ、「しかしケアに準備というのは可能なのか」「真のケアとは即興的なものではないのか」とさらに問いなおされます。
 ここで、西平先生の元で学ばれた京大の大学院生が書かれた博士論文が取り上げられます。これは患者(やクライエント)の呼吸に合わせてハープを奏でるという音楽療法の意義を研究した興味深いもので、音楽療法の一つの起源が、修道会において死にゆく修道士を皆で送るための聖歌の旋法にあること、その際および奏者の日常における瞑想的contemplativeな態度がけいこ=準備につながることを指摘しています。日本ではリラ・プレカリアとして知られていますね。死にゆく人へのケアと音楽経験について語られたこの博士論文、ぜひ読んでみたいです。そしてこのような学生さんと一緒に考察を深めていける西平先生をちょっぴりうらやましく思いました。
 最後のまとめのシンポジウムも手短に紹介します。東北大の谷山洋三先生を司会に、学会の過去と未来をふりかえるシンポジウムです。まず島薗先生が過去10回の学会のテーマ、内容、社会の出来事を照らし合わせながら、宗教および宗教者の社会へのあり方が問われてきたことを示しました。柏木先生は「年寄りの役割は言葉を整理すること」といっていつものように会場の笑いをとりながら、日本最初のホスピスの一つに関わられた一員として、ホスピスという考え方の普及のために自身がどのようなことをしたのかを話題にします。タクシーの運転手の雑談に入るようになったら、それはその概念・言葉が世間にしっかり広まっていることのバロメーターになるという考え方があります。ホスピスという言葉が普及するように、柏木先生はタクシーに乗るたびにその運転手さんにホスピスについて説明してきたというのです。高木先生は「魂の痛みspiritual pain」という言い方を「魂の飢えspiritual hunger」といいかえたらどうなるか、と問題提起されました。これに対して柏木先生は、非常に重要だけれどもWHOなどが提起している四つのpainのモデルの中にhungerが入ると収まりが悪い--「身体の痛み」と「魂の飢え」を同列に並べてケアを満たすようにはできない--と実践的な観点からの課題を示されました。高木先生はWHOの枠組みではなく、spiritual hungerという語がぴったりだという直観に近い思いをもっていると応答されました。この二人の意見のどちらが正しい、というのではなく、hungerやpainの語で指し示されている状態をどう感じどう関わるかが問われているように思いました。
 司会の谷山先生が「セルフケア」という大切なことについてお三方はどう考えるか、と質問されたのに対し、高木先生は日野原重明先生の死をどう受け止めたかという自身の体験と、その過程で他に支えられることの有り難さを語られました。柏木先生は、ご自身が2500人以上の看取りに関わってきたがふりかえると医療チームに支えられたと実感する、ということと、病院ボランティアの要件として、「家族を看取ったことをきっかけとして病院ボランティアを希望されることがしばしばあるが、看取られてから一年以上の時を過ごしていただくことをボランティアの要件としてお願いしている」ことを紹介されました。島薗先生は、すべてのケアはある種のスピリチュアルケアで、死にゆく人だけではなく新たに生まれてくる人のケアから得られるものもある、ケアを提供する側が受けるケアの相互性ということにも注目したい、というコメントをされました。
 三氏は最後に、観想的・瞑想的(あるいは祈りの)実践の重要性をそれぞれ強調されました。柏木先生はスピリチュアルケア的な「よりそい」と医療看護的な「支え」とがともに重要であることの再確認(とそのなかでの観想的な要素)、島薗先生は小説「悼む人」を紹介され、また、2005年のJR西日本脱線事故現場で、被害者でもJR側でもない、周辺に暮らして関係者を支援したり影響を受けたりした人への聞き取り研究を紹介され(個人発表の山本佳世子先生の発表)、孤独に人知れず死んでいく人が忘れられないようにしたい、という、ケア学会に集う皆の思いを確認しました。
 
 今回、瞑想的な実践や(あまり明言されていませんでしたが)自助グループ文化がスピリチュアルケア領域にもたらしたものを、個人的には今学会で語られたことの随所に見いだしました。わたしはそれら二つに関わってきたので、自分もお客さんでいてはいかんじゃないか、と思いました。
 
 以上は極私的な観点からの不十分な紹介で、不正確な部分もあろうかと思います。お許しいただきつつ、この分野に関心をもたれる多様な方々にお役に立てば幸いです。
 

(研究員 葛西賢太)