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CIRの活動

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活動報告

宗教情報センターの研究員による、講義や講演、論文、書籍刊行などの活動を報告します。
講義・講演・講座などの配付資料、論文などのダウンロードもあります。

CIRの活動最新記事

2017/09/18

「スピリチュアルケアの現代的展開」シンポジウム、2017年9月18日、上智大学

 上智大学グリーフケア研究所の主催で、チャプレンの活動を多面的に考えるシンポジウムが行われました。わたしの観点からの紹介を試みたいと思います。別のところでも述べましたが、わたしはこの取り組みが日本社会に与える影響に期待しており、上智で教鞭を執らせていただいている一人として、自分も貢献の一端をにないたいと思っているからです。なお、同シンポジウムは庭野平和財団の支援をえて日本臨床宗教師会との共催となっております。

 

基調講演:岡田圭「アメリカにおけるスピリチュアルケアの現在」

 岡田氏は米国ニューヨークの訪問看護サービス・ホスピス緩和ケアのチームの一員として、スピリチュアルケア・カウンセラーをとりまとめる主任をされています(ご自身でも訪問傾聴をされています)。本日の基調講演では、日本人としてのアイデンティティや誇りを保ちながら、人種的にも宗教的にも文化的にもそして社会階層的にもきわめて多様なニューヨークで、(1)ご自身がどのような実践をされているか、(2)米国の制度面、(3)制度を支える方法論、(4)緩和ケアと治療に対する考え方、そして日本文化の持っている可能性をお話しいただいたように思います。当日のスライドは、上智大学グリーフケア研究所のウェブサイトにて後日公開されるそうです(島薗進所長談)。
 (1)岡田氏は、医療チームの一員(このことをとても強調されました)として、白人アングロサクソン文化やキリスト教色の強い「チャプレン」の呼称ではなく「スピリチュアルケア・カウンセラー」という呼称を用いているそうです。もちろん、チャプレンですかと尋ねられればそうですと答えるし、またチャプレンとしての臨床牧会教育のトレーニングを受けられたのですが。医療チームの一員としてはいるからこそ患者さんやご家族に信頼していただけますし、また、誰に話してもチーム全体で共有できる体制があるからこそ臨床専門職として活躍できることを強調されました。彼はまた"We have a holistic approach"と述べることにより、それが指すものを患者さんにもご家族にもスムーズに捉えてもらえる文化的背景があると説明します。
 (2)米国の制度面について。臨床牧会教育(Clinical Pastoral Education)で学ばれたこととして、患者のニーズと、ケア提供者である自分のニーズ(たとえば父の死を思いだして怖いので同年代の男性の患者の話を聞くのを避けるとか!)とをきちんと区別することを徹底して教わったといいます。1950年代-60年代、患者のしんどさ、つらさ、孤独は、ごく個人的な問題とされており、医療の対象ではありませんでした。エリック・キャセルやエリザベス・キュブラー=ロス、シシリー・ソンダースといったホスピス緩和ケア理念に大きな影響を及ぼした論者が、医療者ももっている恐れを直視することを示唆し、彼らの努力があって1990年代にはホスピス運動は米国で一定の定着をみます。
 (3)方法論の面では、米国でも"spirituality"概念の定義の一定のコンセンサスを得ようとする取り組みが進められたそうです(The National Consensus Project for Quality Palliative Care)。たとえば患者さんは現在の自分をどのように見ているか、そこに自責の念があれば、人間を超えた見地を措定して赦しを提供する、つながりを書いていることから生じる問題があればつながりを回復できるようにとりくむ、こういった方法論を背景におきつつスピリチュアリティとはなにかを考えるそうです。
 (4)緩和ケアは「治療をあきらめる場所」というイメージが強かったり、あるいは治療へのこだわりに区切りをつけるべきなのにやめられない事態があったりします。緩和ケアと終末期を自動的に結びつける先入観を変えていくことを岡田氏は説き、たとえば佐久で一般病棟に緩和ケアをあたりまえのように入れる実践がありますよ、と指摘します(このような緩和ケアの考え方は先駆的な病院でもみられ、たとえば千葉にある亀田総合病院では「すべてのケアが緩和ケア」です。これはWHOの緩和ケアの定義ともフィットします)。そして医学的な疼痛緩和などの手法とあわせて、患者さんのニーズにまずふれるための初回訪問をきっかけに、薬への身体の応答や本人の強みと弱み、形に表れない背後におきている人間関係や経済事情などを掘り下げていき、「本人の心地よさ」を実現するために儀礼や音楽等あらゆるものを提供できるように努力するといいます。
 印象深かったのは、医療現場とその周辺で「どうしたらよいかわからない」という言葉をしばしば聞くということに言及した、その説明と、それに対する岡田氏自身の考えです。医師も家族も患者にどう接したらよいかわからない、また患者自身も手本がほしい(これは死生観や価値観や、入れ替わり立ち替わり生じる諸問題への対処を考えなければならない患者さんにとってきわめて現実的な問いと思いました)と語る。これに対して、完全なマニュアルなどない、いかに自分をひらくか、穢れを取り去れない中に個性の恵みがある、自分の限界の外側に希望がある(わたしなりにまとめ直しています)と述べます。
 

第二部 各論

 ジョナサン・ワッツ氏は臨床仏教研究所を通して、日本の既成仏教教団の手の届かない「かゆいところ」に、社会参加仏教Engaged Buddhismの担い手として取り組んできたことを語られました。米国の仏教系CPEの拠点を紹介し、また、スピリチュアルケアとコンテンプレイティブケア(contemprative:瞑想的、観想的)とを比較するお話をされました。ワッツ氏の話によれば、スピリチュアルケアは「患者に瞑想をさせる」ケアであり、コンテンプレイティブケアは「ケア提供者も瞑想をしながら深い関わりと支援を展開する」という話をされました(拙著『現代瞑想論』でもケアボランティアが瞑想する意義を述べておりますのでご興味あればご覧ください)。
 谷山洋三氏は、臨床宗教師の養成に関わる立場から、日本での養成と活動がどのような状況で行われているかをお話しされました。日本人は「無宗教」のように断定されているが、実は民間信仰的な信念や行為はは日本人の多くがいまだに持っていることを指摘し、そこにアプローチすることを臨床宗教師は大事にしているといいます。驚くべきことにすでに「有給」で雇用されている臨床宗教師が数多くいて、その現場で、ちょっとした宗教的な道具(手作りの腕輪念珠とか)を提供したり電話相談などをしたりしつつ、布教や価値観の押しつけはせずに患者さんと関わる技法と可能性についてわかりやすくお話しされました。
 沼口諭氏は岐阜県で開業する在宅ケアを行う医師であり浄土真宗の僧侶でもあります。そして沼口医院の院長として、臨床宗教師を雇用して患者さんと家族のためのカフェ(カフェ・デ・モンク)や勉強会やしのぶ会を提供するリーダーでもあります。あたたかい写真の中で、臨床宗教師がどのような場で活動しているのかの具体的事例を示してくださいました。そして、超高齢化社会・多死社会となった日本において重視されている「地域包括ケア」の実践例とスピリチュアルケアがどのように両立されるかを示されました。
 カナダのカルガリー大学の和田香織氏は、ここまでの話を位置づけるための「大きな地図」を、心理学者の見地から示してくださいました。版を重ねたJarome Frank, Persuasion and Healingをご自身の授業でテキストとして使われていることにふれ、そこでは事例を通して、宗教的な権威と説明が病気の治癒にどのように関わっているかを深く掘り下げる議論がされていると紹介します。また大きな心理学界の動向として、マーティン・セリグマンが提唱した、人間の(病理ではなく)ポジティブな強みに着目したポジティブ心理学、またジョン・カバットジンをはじめとする研究者たちが広めた「マインドフルネス」の考え方が、ここで論じられている「スピリチュアリティ」「スピリチュアルケア」と響き合う内容を豊かにもっていることを指摘しました。ただ、マインドフルネス概念がもともとの仏教の文脈を離れた商業的なものとなってしまいかねない状況、企業や学校教育への導入の中でわたしごと的な自己実現を超えた公共性をどう実現していくかが課題になっていること、エビデンス重視と研究費配分が連動する中での研究者の難しい立場などの話題を提供し、このシンポジウムに新たな視点をたくさん与えてくださったと思います。
 

ディスカッション

 堀江宗正氏が一問一答的な問い1をコメンテータとして投げかけたのち、司会の島薗氏が大きくいくつかの質問を登壇者に発しました。一つはスピリチュアルケアの効果の測定、エビデンスの問題。岡田氏は、いっかいきりの深い出会いの現場は言語を超えたもの(そこに関われることはケア提供者として「もったいない」2ことである、と表現)で、その言語の限界を感じながらも、社会的な事業であるゆえに効果を計ることが求められている現状を述べました。また、Vulnerability and Creativity(弱さと創造性)という言葉で、患者さんやケア提供者の痛みや傷や弱点から生みだされるよきもの3にも注意を呼びかけます。和田氏は「祈りの効果」についての「実証的研究」を取り上げつつ、このような研究も行われていることにただ喜んでいる場合ではなく、次に「どういう祈りが効果的か」といった研究が続いて、行き過ぎた合理主義が入り込んでいることの問題性を指摘されました。また、「○○のケア」ということがときに侵襲的な介入をもたらしかねない危険をはらんでいることをどう考えるか、という島薗氏の問いには、岡田氏は、実は自分たちは「魂のケア」という言い方をしない、なにか問題があるからそれを解決するというアプローチは私たちのものとは異なり、すべてをチャンス4としてアプローチするという姿勢をとっている、と応答しました。

 上記の内容はわたしの関心から、わたしの言葉で翻訳されており、発題されたご本人の意図からずれているものもあるかもしれません。しかし、とりいそぎここでの議論の内容を踏まえていただくには使える程度にはなっているかと思います。お読みいただき皆さんの議論に供することができればうれしく思います。

日本スピリチュアルケア学会のここ数年の大会については、葛西研究員が、
「第10回スピリチュアルケア学会に参加して」
「第9回スピリチュアルケア学会参加報告」
を、宗教情報センターウェブサイト上に。
また、第8回日本スピリチュアルケア学会の「定義構築ワークショップ」について、東北大学実践宗教学ニュースレターの第8号に報告しています。あわせてお読みくださいますと幸いです。
 

(註1)シンポジウムの際の堀江氏のコメントは、すべて「地域」にこだわったものでした。​しかし、当日はいささかまとめにくい展開になってしまい、いくつも重要な指摘をされていたことが心残りでしたので、堀江氏本人に直接うかがいました。このシンポジウムとあわせて考えて頂きたい事柄とおもいましたので、この註記をあらためて皆さんに紹介したいと思います。
 ​実際にはどのような地域でのケアなのかという視点が重要で、だが発表のすべてが、行われている事柄や技法や方法論に力点が置かれていた印象を、堀江氏は受けたので、それを確認されたとのこと。いずれにしても、この日の話は、全員が普遍的に妥当なテクニックとしてケアをとらえているのではないか、地域やコミュニティやネットワークの固有性を見据えた上でのケアとはなにかを質問を通して浮き彫りにすることを意図されていました。「宗教も含んだ地域に潜在するケア資源の掘り起こしというテーマは沼口先生の方から出ましたが、これは大垣市のように宗教的に単純だと容易ですが、そうしなければいけないと沼口先生がいま危機感を抱かざるをえない地域の事情があるはずです。最終的には日本社会の状況や政策の動向と密接に関連しています。同じことをアメリカの場合どうなのかということも確認できれば、広い文脈から、普遍性と、地域性や個人性とをつきあわせる視点がひらけたのではないかと思います」という、堀江氏の言葉が印象的でした。たとえばこのことは、市町村や県やより広域の行政に関わる人が「ケア」の観点とともにもっていなければならないことだと、葛西は感じました。葛西は、順天堂の浦安病院で、浦安市との協力関係の中、卵子凍結温存技術を活かしての抗がん剤治療が行われていることを想起しました。
 以上を踏まえつつ、堀江氏の質問と応答を考えてみてください。以下は葛西のメモに基づく雑駁なまとめです。岡田氏:ニューヨークの中のどの地域か(clientがいる地域が担当地域となる)、ワッツ氏:すべての仏教徒が瞑想実践を重視するわけではなく特に日本の浄土宗は瞑想を重んじないとかんがえるが?、沼口氏:地域における宗教の公共性の現れを知りたい(地域包括ケアの資源の一つとして、宗教の押しつけではなく、資源を引き出す。岡田氏もニューヨークでの同様の事例を補足)、谷山氏:東日本大震災で実感した宗教的ニーズの確認(東北太平洋岸広域であったことと、ご遺体を目の当たりにすることが多かったことがこれまでの震災と異なるかと思われ、宗教的ニーズをより引き出したといえるかも知れない)、和田氏:介護などのケアは主として女性・主婦がになわされるシャドウ・ワークだが、これらを課せられる人々や専門職の「燃え尽き」についてどう考えるか。​
(註2)honor to serve youのhonorにふさわしい日本語の訳はなにかという点で、当初、葛西は、「誇らしい」という訳をつけていました。この訳につき、岡田氏自身が私信で思うところを伝えてくださいました。名誉というのは違う、また誉(ほまれ)というのもいまの日本語ではあまり使わない、有り・難い(このようなことが希有な特別なことという実感)という感覚も大事だと思うが「有り難い」と言葉を言われるのも患者さんご本人にとってはやや戸惑いがある、教えられること、生き様を見せて頂くこと、最期の貴重な旅路の同伴をさせて頂くことへの敬意と感謝、という意味で「有り難い」という意味を含んでいるのだが。そうした熟考のすえ、「もったいない」がもっともhonorの訳語としてふさわしい感じがする、とお伝えくださいました。
 葛西が「誇らしい」という訳をつけたときに感じていたのは、岡田氏の言われる「ほまれ」にちかい、職業的な自負や人としての思いのこもったような感じでした。「誇らしい」、「有り難い」(貴重だ、希有だ)、「もったいない」等の訳語を味わいながら双方で確認するプロセスは貴重でした。岡田氏自身のご了承をいただき、該当部分を引用させていただきます。

「誇らしい」ではないですねえ。自分の誇りではなくて、そのような場面に遭遇し目撃することは、人間的にも変えられ成長させられるほど深いインパクト。有り難いというか(漢字で。なかなかそのような魂に響くほどの場面には出会えないので有り難いです。)言葉を失う、言葉にならない瞬間です。問題は、そのような場面で自分の心を開いて(技術や方法論や「こうであらねばならない」ではなく)人として関わり、対話し、その場に自分を提供しながら、患者さんやご家族も心開いてそのままを打ち明けて下さる姿を受け取る、ある意味で相互依存のような関係性で敬う場面でもあります。

(註3)この「よきもの」は、註4で述べる「チャンス」と深くつながることを、岡田氏から補足いただきました。「チャンス」と「よきもの」を重ねて味わってみてください。
(註4)「解決するというアプローチは私たちのものとは異なり、すべてをチャンスとしてアプローチ」(下線は葛西がつけました)という箇所についても、岡田氏自身から感想と補足を頂戴しました。味わい深い岡田氏自身の言葉を、ご承諾をいただいて、私信から引用させていただきます:

「私たちのもの」というより、スピリチュアルケアというもの自体が、問題解決の視点とは違うということなのです。チャンスというのは、どんな人も人間として持っている、想像を超えた可能性が開くチャンスでもあり、医療者側のより深く関わるチャンスでもあるのですが、むしろ患者さんやご家族本人にとってのチャンス。問題や課題、悩みや迷いは「悪い問題」ではないということです。それを通してこそ人は本当に大切なことを発見するし、癒しを可能にする自分自身の傷の理解や、他者の立場により深く立てる理解を得る成長の機会になるからです

(研究員 葛西賢太)